小悪魔





窓から射す白い光に気がつき、目覚めた。
その第一声は「・・・しまった」。
私としたことが、彼との約束をすっぽかして
資料室ですっかり寝込んでしまったらしかった。
参ったな、と頭を掻く。

昨夜の約束は、こうだ。
確かに私は彼の部屋に行く、と言った。・・・が、彼は彼で
自分の隊の会合があるから何時になるかは解らんと、突き放してきた。
ならば終わったら部屋に来てくれ、私の部屋で会おう、と、
そこまで話は進めたものの、やりかけの書類があり、
それを完成させるには過去の資料が必要になった事もあって、ここにそれを探しに来たのである。
資料は簡単に見つかったものの、なにせ膨大な書籍もあるこの資料室。
より詳しい関連付けを求め、数年前の軍事裁判などの資料を物色するうちに
夢中になって、備え付けてあった簡易ベッドでついウトウトと・・・
と、守衛などもいたのだろうが、ご丁寧に薄い毛布を掛けられていて、
風邪をひくことは免れ、それには感謝したかったが、
何故起こしてくれなかったのか、とやり場の無い苛立ちも多少。
心が狭いな、とは思うが、いかんせん彼と二人きりになれる機会はここ最近無かったのだ。
どうしても会いたかったのに・・・と、無念な気持ちでいっぱいになった。

さて、ここで問題がある。
あの癇癪もちの彼のこと。
私が部屋に戻らなかった事について、かなり冠なのでは、と懸念する。

それは自惚れではなく、彼は私にベタ惚れだから(勿論、私もそうだが)、
嫌な考えで怒り狂ってるのではないかと・・・も。

狭い簡易ベッドで凝った背骨をバキバキと鳴らしつつ、
薄い毛布を畳み、守衛に鍵を渡してから部屋に戻ろう。
シャワーを浴びたかったし…ああ、今日は夜勤であったか。それはささやかながらも幸運。
手に書類を持ち、とりあえずはその狭い部屋を出た。

熱い湯は、これでどうだ、と言いたげに私の体に細やかな飛沫を上げつつ、叩きつけてくる。
酔っているわけでもなかったが、頭が次第にクリアになり、彼が本気で怒っている様を想像できた。
先ほど自室は改めたが、彼の姿は無かった。当然だろう、彼は今日も勤務がある。

私ならばこういう時は置手紙を残すのだが、彼はそういったことはしない。
実にあっけない気になる。
約束を破られ、文句の一つも無く部屋を出たのだろうか。
それとも、朝まで待ってから勤務に?
いずれにせよ彼の寂しそうな表情が想像でき、食事の後に謝りに行こうと、思考する。

今、つまり私は仕事より色恋沙汰を優先しているのだな、と思うと
妙におかしい。笑いがこみ上げてきた。
濡れた髪をいつものように適当に後ろで纏め、コーヒーを淹れる。
熱いそれを二口ほど飲むと、空腹を感じたので、そのまま食堂へ赴く。
そういえば、今は何時なのだろう?
考え事ばかりで時計すら見ていない状況に我ながらあきれ果てた。

頬にそばかすを散らした給仕娘が、あら!・・・と驚いた表情でこちらに気がついた。
「天様、こんな時間に珍しいですね。おはようございます」
「おはよう、今日も可愛いな」
「やだー」
ここまで純朴な娘も最近は少ないだろう。娘にするならこんな子が良いのだが。働き者で、明るい。
「今日は夜勤でな、ゆっくりしていた・・・何か軽く食事がしたいのだが」
「もう朝食の時間は終わって、そろそろ休憩時間ですよ。食堂長も、皆休憩です」
「そうか」
「私、サンドウィッチくらいなら作れます。いいでしょうか?それで」
「ん、頼む。テラスにいる。」
「はーい」

食堂は2階にあり、テラスとはいっても広いベランダにテーブルをいくつか置いただけのそこに移動する。
ふと、手すりのそばで空を仰いで伸びをすると、太陽が空の天辺を目指して、眩しいくらいに輝いていた。
古い資料に目を通しながら、私は大人しく軽食を待つ。
食堂長初め料理人たちが休憩中でも、彼女はここに居た。
私のような迷惑者が腹を空かせて訪れるのを対処する為だろう。
頭が下がる思いだ。
暫し、凝った肩や首を鳴らしていたのだが、
給仕娘がサーモンサンドとチャイを運んでくれたのを良い機会とし、
それに齧りつきながら携帯用のペンを取り出し、さて、仕事でもするかと覚悟を決めると
「貴様ッ!」
いきなり頭を鷲掴み、ときた。
「・・・おはよう、今日も愛らしい怒り顔だ」
昨夜、約束をすっぽかした相手が、いつもより深く眉間に皺を寄せ、立っていた。
「良くここだと解ったな」
「さっきそのでかい図体がベランダに見えたのでな!」
「ほうほう、今度から気をつけねば」
「茶化すな」
「まぁ、落ち着きなさい。給仕娘が驚いている」
「・・・チッ!」
盛大な舌打ちをするガダラルを尻目に、
驚いた表情で盆に水を乗せたまま立ち尽くす給仕娘に笑いかけた。
「炎さま、天様に向かってすっごい偉そう」
「なんだと」
「きゃー」
実はこの給仕娘、屈強な兵士をからかう術に長けており、また、その
のらりくらりと男たちの豪気を帯びた声をかわす様から、食堂最強であるとの声もあがっている。
実際、彼女は飄々として、やや天然にボケており、あまり真面目に怒る方が馬鹿げているのだが。

もろ手を上げて逃げ出した給仕娘の出してくれた水を煽って、ガダラルはふぅ、とため息をつき。
「昨夜どこにいた」
声を潜めて、言った。やはり、それか。
全く、彼にも困ったもので。
「・・・浮気者・・・ッ!」
素晴らしいほどの勘違いを見せ付けてくれる。
まぁ、可愛らしいのだが。
「こらこら、待ちなさい」
「部屋に呼んでおいて・・・ッ」
ギリギリ、とその拳を強く握るものだから
「爪で傷がつく」
「俺はもっと傷ついた」
・・・。
やれやれ・・・。

「何処まで信じてくれるかは解らぬが・・・。昨夜は資料室にいた。
 調べ物をするうちに、ウトウトしてしまってな。結局泊まり込みになった」
ぎろり、と私を睨む目があった。
青い炎が見えた気がしたが、見なかった振りをしてそのままサーモンサンドを平らげる。
やましい事はしていない。信じるか信じないかは彼次第だ。
私が嘘をつくような男か、浮気をする男かどうかは、彼が一番よく知っている事だろう。

「・・・」
暫しの沈黙。
「・・・貴様が・・・」
「・・・うん?」
「貴様が浮気などしない男だ、というのは・・・解っては、いる・・・が」
うん、解ってくれたか。
「・・・俺は・・・待っていたのだ・・・ずっと、朝まで」
「それについては、謝る。すまなかった。心から、申し訳ないことをし・・・た・・・ッ!」
いきなり、耳を掴まれた。
エルヴァーンである私にとって、耳はちょっとした弱点なのだが・・・!
「・・・痛・・・ガダラル・・・ッ」
「畜生、腑に落ちぬ」
なんだと・・・っ!?
「来い」
そのまま、彼は顎をクイ、と動かして合図をし、
まあ、耳は離してくれたもの、怒りに肩を震わせながら食堂を出て行った。
来い、と言われたので・・・。
「サーモンサンド、馳走になった。ありがとう」
厨房で洗い物をしていた給仕娘にそういうのがやっとで、ズンズン歩いていく彼の後を追った。

「何処に行く気だ?」
彼は早足で、とうとうアルザビまで追う羽目になった。
足の長さは私のほうが勝ってはいるが、せっかちな性格上、歩くのは彼のほうが早いらしい。
私がのしのし、と歩く所を彼はトタトタトタ・・・うむ、擬音にしても一歩多いな。
彼はあの通り怒っているというのに、私はおかしくて仕方なくなっていた。
と、先に行く彼が廊下の角をさっと曲がり。
見逃さないよう早足になったが、そこは鉄の扉が開いただけの武器庫であった。
どうやらここにおびき寄せられたらしい。
武器庫とは穏やかではないな。しかもここは「刃のついた」武器専用の武器庫である。
演習用ではなく、実践。つまり市街戦にならなければここには誰も来ない。

明日の朝刊に「天蛇将痴話ゲンカの末炎蛇将に刺される!」などという
見出しがついては洒落にならんな。
どうにか説得せねば。

その暗い武器庫はろくな明かり取りも無く、奥のほうに1つだけ、小さな窓がある程度であった。
私はこのようなところにアルゴルを保管するわけにもいかないので、入ったことすらない。
名も無き一般兵が、ようやく支給される武器の保管場所であるらしい。

ヒヤリ、と独特の冷気が私の頬を掠めた。
何故、このようなところに・・・。
「ガダラル」
呼ぶ、しかし、返事が無かった。

ずい、と奥に進むにつれ、確かな金属音がする。
まさか、本気で武器を吟味しているのか?
「誤解させてしまったのは謝る、だが、本当に資料室で寝てしまったのだ」
「うるさい」
む、うるさい、ときたか。
「うるさくても聞きなさい。何を怒っている?約束を破った事だろう?
 ・・・すまなかったと、本気で私は申し訳なく思っている。だから、許してはくれないか」
ガシャリ、という金属が石畳に落ちる音がして、私は言葉を失った。

片手剣のならぶそこを曲がる。
そこを曲がると、小さな明かり取りがあり、そこに人影があった。
ガダラル、であろう。
「・・・俺を放って置きやがって」
「だから・・・すまなかったと・・・」
「誓ったのではなかったのか」
「ああ、誓った。覚えているよ。貴殿を愛している、誓った」
「ならば・・・来い」
その人影から、またもやガシャ、と音がし・・・。
「・・・ガダラル・・・」
アミール装束を外し、彼はそこに立っていた。
下唇をぎゅと噛み、頬を少し赤く染め上げ、あろうことかアンダーシャツを胸の上まで捲くり上げ。
「早く・・・ルガジーン・・・」
その声は厭らしいほどに艶めいていて
「ここなら誰も来ない、早く抱け・・・」
抗う事など、できようか。
私の喉の奥がゴクリ、と鳴り・・・。

 

その体は確かに、「寂しかった」と、強く私に訴えていた。