初めての恋 ・皇国・





「そろそろ冬か」
ガダラルの呟きに、傍らに控える壮年の側近は
何か言いたげに口髭をもごもごと動かしたが、言葉は音にはならなかった。
口髭を生やした側近・・・シャヤダルは皇国生まれの皇国育ちである。
しかも軍隊に属しているとはいえ、戦場に立ったことは最近の市街戦だけで、ほとんど経験はない。

軍隊の中でも戦場に立って戦う者と、そうでない者がいる。
シャヤダルは後者であり、彼の仕事は軍隊内部の管理であり、本部に属している。
戦場、つまりガダラルの属していた東部のことは聞く程度しか知らないし、
過酷だった、と言われればそれはそれで納得をするのだが、実感が沸かない。
子供に聞かせてやる絵本の冒険話を、一つ壁を隔てて読んでいるような、
「どうせこんな話は絵本作家の創作で、現実には有る筈も無い」そんないい加減な気持ちすら
僅かに胸に抱いて聞いていたのである。
しかもこの東部出の上官は、自分の過去の話などはろくにしなかった。
余程いまいましいのか、それともシャヤダル、つまり副官などに
わざわざそのような話をしなくても良いだろうと思っているのか。
シャヤダルにとって絵本の壁のような隔たりこそ、このガダラルと自分の間に
聳え立つような物だと、そんな気がしていた。自分とは違う人種と拒むような。
その為、まだ秋の始まりであるこの時期に何故この若い将軍が
「冬」と言う言葉を口にしたのか理解できなかったのだ。
東部の冬は早く、春は遅い。東部の連中は、もう冬支度を始めている頃だろう。
「シャヤダル」
「・・・ハッ・・・!」
返事をしてから、初めて名を呼ばれたのだと理解する。
「東部の冬は地獄ぞ」
雑談、しようとしているのか?
この若い将軍が?
気難しげに口を真っ直ぐに閉じたままで、いつも眉間に皺を寄せているこの男が。
「貴様、元々は内部管理が仕事だろう。まだ雪が降らんうちに
 東部に防寒具と燃料と野菜、果物・・・そうだな、キトロンがいいだろう。
 あと、オニカボチャ。あれは切らなければ1ヶ月はもつ。それと・・・」
「お、お待ちくだされ」
シャヤダルはガダラルが何を言わんとしているのか気付くと懐から紙とペンを取り出す。
若い将軍は口元でニヤリと笑うと、そのまま話を続けた。
「アルコールは、そうだな、白門の茶屋で扱っている酒がいい。
 あれと同じ物を支給してやってくれ。戦場に居ようが、旨いものの方が良いからな」
まるで早口で、独り言のようなそれらの品々の走り書きを終えると、
シャヤダルはその足で上層部へと掛け合うために詰め所を出た。

 

ガダラルは一つため息をつくと、自分を見る視線に気がつく。
ルガジーンの側近の長身のヒューム女性がこちらを見ていた。
彼の視線に気がつくと、慌てて目を反らしたが、
「何だ?」
問い掛けると
「いえ、あの」
慣れない役職に就いてしまったせいか、
やや緊張したまま彼女はしどろもどろに返事をした。
「言いたい事があるなら、言ってしまった方が良いぞ。ビヤーダ」
彼女の上官がクスクスと笑う。彼・・・ルガジーンは先ほどまで動かしていた
ペンを止めると羊皮紙の束を持ち上げ、それをビヤーダと呼んだ女性へと渡した。
彼女は頭を軽く下げてその束をを受け取る。
「そうだな、例えば」
ルガジーンはペンを器用にくるりと指先で回して、ペン立てにそれを挿し頬杖をついた。
「どうしていつも機嫌が悪そうな顔なんですか?とか」
自分の言った言葉が楽しかったのか、
ルガジーンはハハハと笑い、思わずガダラルも目を丸くしていた。
「貴様」
そのやり取りで歳相応の顔立ちに戻ったものだから、
ビヤーダも一瞬だけ、ガダラルに注目していた。
「東では大分気が張っていたのだな」
ルガジーンのその言葉は労いにも似ていて、ガダラルは思わずそっぽを向く。
「きりがいいところで休憩にしようか。ビヤーダ、
 申し訳ないが君はシャヤダルを待ってから休憩にしてくれ」
「ハッ」
「炎蛇将、少し時間をくれるか?」
「・・・・・・なんだ?」
「少し、アルザビを案内したい」
「案内などされなくとも」
「うん、それは解っているのだが、考える事があってな。まあ、付いてきてくれ」

 

軍装のまま二人は連れ立ってアルザビを歩いた。
ここも白門と同じく二重構造になっている。階段が多く、入り組んだ街だった。
石畳に二人と、そして街の者達の行き交う靴音が響く。
立派ないでたちの二人の将軍の姿を目にすると、遠巻きから市民は頭を下げた。
ルガジーンはそれに手を挙げて合図をするが、ガダラルは無愛想にしていただけだ。
彼等に媚びを売っているようにも思えたのかもしれない。
それに、ルガジーンの歩調に合わせて歩くのはなかなか大変だった。
悔しいが、こういった些細な事でも種族差を思い知らされる。
暫し歩いて、二人は堀のある門へと辿り着いた。
「ワジャームとバフラウへ出るこの門・・・」
ルガジーンはそこの二か所を指差し、門番達は彼等に気がつくと敬礼をすると、
彼はその敬礼にも指差ししていた手を振り、応えていた。
「蛮族はご丁寧にここから入ってくれる・・・ので。ここに見張りを置こうと思う」
「ふむ」
「戦場に立ってこその将軍だ。貴殿も私も頭数として考えておいてくれ」
「承知した」
「そうだな・・・」
何か考える時の癖なのか、ルガジーンは長い指で形の良い顎を摘んだ。
「弓などで迎い討てるように高台を両門前に作るか。
 私がそこに立とう。進行を阻む事もできるだろうしな」
「危険な場所じゃないのか?」
「だから私が、だろう?」
大将が最も危険な場所に立つと言う。こんなふざけた話はガダラルは聞いたことがない。
大将とは、奥でふんぞり返っていれば良い物だ。
「貴様の思考は良く解らんな。大将が討ち取られたらどうする。
 アンタは後ろで指示だけしてりゃ良いだろうが」
「おお、そうか、優秀な白魔道士が欲しい所だ」
冗談めかして言う彼に、一つ盛大な溜息を吐き、あきれ返る様を見せ付けてやる。
「まぁ、この国の大将とは、聖皇様であらせられるからな。確かに、奥で威張っていて戴きたい」
ルガジーンはいつぞやに助けた可憐な少女を思い浮かべる。
あの時腕に怪我を負い、包帯の代わりにとリボンを結んでくれた
その仕草すら一つ一つ思い出せるし、そして何よりもあのリボンは大切な持ち物となった。
そういえば、隣の男も聖皇様と同じヒュームか、などと思い出し、ガダラルをじっと見詰める。
東部とは雪深いと聞く。だから、この白い肌が嘘のようにも思えたのだ。
「何を見ている」
「色が白いな」
「ヒュームだからな」
何気ない会話だ。
多分、何気ない会話だと思う。
「東は雪が深く、その反射日光で日焼けすると聞いた事がある」
「焼ける焼けないは体質みたいなもんじゃねェのか」
「ほう」
ガダラルの説明にも納得する事は出来ないのか、
ルガジーンは身を屈めてさらにガダラルを見詰めていた。
「頬に」
「な、んだ・・・?」
「シミ一つもないのだな」
じっと見られ、ガダラルは目を反らしていた。
この双眸に弱いのだと、自覚をしはじめていたのかもしれない。
次第に息苦しささえ感じて胸を押さえた。
胸が、痛む。
何かがざわめく。
動揺を隠そうとするガダラルとは対照的に、
目の前の男は憎らしいほどに普段通りの落ち着き様であった。
いつもの低く良く響く声がガダラルの耳朶をくすぐる。
「自分に無いものを羨やむのは人の常だと思うが、綺麗な肌だな」
手が伸びて、頬に触れようとしたのを即座に払いのけ、
「・・・・・・俺に触れるな・・・ッ!!!」
ガダラルの右手は炎が噴きだしていた。
「・・・・・・っ・・・・・・!」
さすがに自分がした事の大きさに躊躇するが、
ルガジーンは咄嗟に避けたのか、幸い火傷などはしなかったようだ。
ただ、驚いた表情でガダラルを見ている。
その表情に軽蔑や憤慨や哀れみや、そういった色は見えなかったが、
驚きは隠せないようでただ無言で対峙していた。
遠くに居る門番や、通りかかった市民はやや騒ぎ立てたが、
なんでもない、という風にルガジーンはそれを手を揚げてアピールをする。
「・・・・・・畜生・・・ッ」
自分のしてしまったことに謝罪する事もできないまま、ガダラルはそこを走り出していた。


気持ちが悪い、吐き気がする。
男などに触れられる事など・・・・・・。
けれど・・・。
足を止め、右手をじっと見る。
おかしい、なぜ炎など噴出したのだろう。
詠唱もイメージすらしていないというのに。

 

一人、バフラウ段丘への門に取り残されたルガジーンは
「やれやれ」と、頭を掻いて立ち尽くしてしまった。
「本当に、炎のような男だな」
ルガジーンは一人ごちると、仕方無しに一人での休憩へと赴いた。

 

食欲は無かった。元々ガダラルはその側近に心配されるほどに食が細い。
ようやく西部の味に慣れ始めたのに、今は食堂の料理も手には付かなかった。
厨房の奥で太った料理長や、その弟子達がソワソワと落ち着かない様子で
眉間に皺の寄ったままスプーンを構え、微動だにしないガダラルを見ているのである。
今日のイチピラフは新しく西部へと赴任された将軍へと、
料理長が腕を振るった筈なのだが、勿論それは素晴らしい魅惑の芳香をし、
一般の人間なら間違いなく掻き込んでいただろうが、彼は何故か手を付けずにいたのだ。
顔の青ざめたままのガダラルをそっと盗み見、上官が手をつけないので
・・・・・・シャヤダルまでもがスプーンを握ったまま、イチピラフを睨む。
「ガダラル様、冷めますぞ・・・・・・」
「・・・・・・」
シャヤダルといえば、先程の東部への支援物資に関する報告を
ガダラルにしようと、彼を探して共に食事の席に就いたわけだ。早く飯を食いたい。
「休憩時間が無くなりますぞ・・・・・午後の仕事に差し支えます」
ギロリ、とこちらを睨む目にびくつきながらも、自分の主張は精一杯した。
目の前の若い将軍は東部ではその残虐な戦い方から、かつては羅刹と恐れられてきたのだと聞いた。
羅刹。男は醜く、女は美しいが、ともに人間を喰らう悪鬼だという。
目の前の若い将軍は本当に人間を食ったりはしないだろうが、
それでも怒らせたら恐ろしいに決まっている。
元々が宮仕えのような仕事中心のシャヤダルは、
この目に冷や汗をかきつつ、眉を八の字にした。

と、急に目の前のガダラルの表情が変わった。
眉を寄せて激しい嫌悪感の表情になると、シャヤダルの頭の上辺りをじっと見ている。
はて、食事時だし、ターバンは取ったはずだが・・・?と、
思い直すと間もなく、その頭上から良く響く低音が聞こえた。
「おや、ここで食事とは奇遇だな」
「て、天蛇将さま」
「ああ、座っていて結構。先程は失礼、炎蛇将。」
「・・・・・・っ」
そっぽを向くガダラルをたしなめるようにシャヤダルは目配せしたが、効果は無かった。
「座っても?」
「どどど、どうぞ!」
「重要な話をしているなら遠慮するが」
「いえいえ、とんでもない、こちらのガダラル様がなかなか食事をされないので困っていたところで」
「余計な事をいうな!」
ついむきになって反論するガダラルを微笑ましく思いながら、
給仕娘の持ってきた冷水で口を潤すと、ルガジーンは思い出したように指先を顎に寄せていた。
「そういえば、先程の東部への支援の話はどうなった?」
ガダラルもその話は聞きたかった。つい、顔をシャヤダルへと向けていた。
その熱心な様子を見ると、彼はやはり東部の人間なのだなぁ、としみじみ感じる。
勿論そこに戻りたいとは一言も言わなかったが(東部から本国に戻るのは非常に困難であった。
よほど大きな怪我をしない限りは、東部での戦禍に身を投じなければならなかった)。
「は、無事通りましてございます」
「そうか、良くやってくれた」
ルガジーンは遠慮なく微笑んだが、ガダラルを盗み見ると、彼はほっとしたような表情を作り、
そして視線に気が付くと再び唇をきゅっと閉じて眉間に皺をよせてしまった。
折角の柔らかな表情だったのに、この頑なに不機嫌そうな表情は
ガダラルらしいといえばらしいのだが、
何故か無理して他人を寄せ付けまいとしているような。
ルガジーンにはそう見えて仕方が無かった。

正直、不愉快な部下である。
扱いずらい部類に入るだろう。
それでも何故か、気になってしまう。
ヒュームとは白くて小さくて、つい保護欲が沸いてしまうからだ、と言い訳を盾に。
彼の事は何も知らなかったが、その過去に何があったのかと、興味は沸く。
どんな酷い過去を送ってきたのだろうか。
東部とはそれほどに酷い世界なのだろうか。
「・・・・・・冷めるぞ」
ガダラルの不機嫌そうなその声で、食事は開始された。
ただし、二人が話し掛けてもガダラルは決して言葉を交わそうともしなかったので、
シャヤダルは酷く肩身の狭い思いをしたのだが。
さっさと食事を終わらせたガダラルは残っていたグラスの水を
一息で飲み干し、無言で立ち上がると食堂を後にしていた。
「気難しいですなぁ・・・ハハ・・・ハ」
「シャヤダル」
「ハッ」
ガダラルの姿が見えなくなるとルガジーンは
辺りを警戒するようにし、声を落としていた。
「頼みがある。いいかな?」
ただならぬ雰囲気にシャヤダルは緊張するも、承諾の返事をしていた。
「彼を。炎蛇将ガダラルの過去を調べてくれるか?」
「・・・・・・て、天蛇将様・・・・・・?」
つい見上げたその表情はただ、暗かった。
いつも穏やかにしているルガジーンの表情とはまるきり別人であった。

  

兵士達の演習では、怪我を考慮して刃の無い剣を遣う。
刃が無い、といっても刃を削っただけである。
当たれは打ち身にはなるだろうし、時に骨折も有り得る。充分扱いには気をつけるべきだ。
かといって充分な重さの剣を普段から扱っていないと、実践でその重みに慣れず、思うように動けない。
彼等兵士が使うのは、片手で扱えるシャムシールやバスタードソードが主であった。
シャムシールはその見てくれのように湾曲し、日本刀のように肉を斬るのに優れているし、
バスタードソードは鉄の重みで肉を断つのに優れている。
女性騎士はショートソード等を持つが、これは名のとおり小さく軽いため、
トリッキーな戦術を用いる事が出来る。
実践でルガジーンのように両手剣を触れるほど鍛え上げられた兵士は皇国軍にもそうそういない。
腕力は勿論だが、その腕を支える胸筋、そして体重と鉄の塊である無事を支える下半身が必要となる。
盾を持たない代わりにこの剣で攻撃をいなす事も考えれば、判断力は勿論、機動力も必要とされるだろう。

天蛇隊の兵士達が、皇国軍軍用広場で思い思いに剣を弾き合う。
将軍とその副官の怒声が響く。
それをガダラルは遠巻きに見詰めていた。
先程の腕から噴出した炎の件で、思うことがあったのである。
無論謝罪をしようなどと、殊勝な考えではないのだが。

詰め所へと続く回廊を歩いた先に、こうして広場が繋がっていた。
長く、薄暗い回廊を抜けた途端に野ざらしの広場に辿り着くと、
この瞬間は溢れるばかりの光に視力を奪われ、
まるで透明な世界に舞い込んでしまったような錯覚にさえ陥る。
石畳の延々と続く回廊は暗く薄寒く、そのためこの光の世界はなんだか落ち着かないのだけれど、
それでもガダラルは剣の稽古をする兵士達の姿を見るのは嫌いではなかった。
屈強なガルカやエルヴァーン、俊敏に動き回るミスラやヒューム。
そして、その足元でタルタルが剣を振るうのだが、潰されやしないかと少し不安にもなる。
それでも軍装を纏った多種族の兵士達の中から、ルガジーンを探し出すのは容易い事だった。
背が高く、皆と違う鎧を纏い、背にはアルゴル。
真っ先にルガジーンの姿を見つけ出した彼は、ただアイツが目立つからだ、と言い訳をする。
なのに、目を閉じて耳を澄ませば、剣戟の合間にも彼の声すら聞こえる。
まるで海に流れでたメッセージボトルを自ら波を掻き分けて探し出すかのように、
いつの間にかその声だけを探して拾っていた。響き、いつでも耳の中に弾けるように。

不思議だった。
なぜ、こうしてあの男を見ているのか自分でも解らなかった。
目が見たい。
あの日茶屋でこちらを見詰めた、あの瞳。
ほんの先程、門前でからかうように細めたあの双眸。

見詰めていた事に気付かれたのだろうか。
視線の先のルガジーンは、確かにガダラルを捕らえていた。
あ、と気付く。
彼の足がこちらに向かってくる事にガダラルは気恥ずかしさを覚えた。
どうして、見ていたのだ。気付かれるほどに見詰めていたのか?
光を背負ったルガジーンは、ただいつものようにガダラルに声を掛けていた。
「何かあったか?」
声が、出ない。
「・・・・・・どうした?顔が青い」
首を横に振る。
「炎蛇将?」
「な、なんでもない・・・ッ」
「・・・・・・昼から様子がおかしいな?」
篭手を外し、素肌になったルガジーンの手に釘付けになっていた。
身動きがとれず、彼がなぜ篭手などを外すのか検討もしなかった。
浅黒く無骨な彼等エルヴァーンらしい肌が、そっとガダラルの額を捉えた。
「・・・・・・熱はないようだが」
触れられた事に気付くと、その手を払いのける。
「俺に触れるなと言った筈だ」
「すまんな、つい。熱でもあるのかと」
「そんなものがあればさっさと医務室に行く」
「そうか?こちらの風土に慣れぬうちは体調も崩しやすいかもしれんな。ま、無理はするなよ」
「余計な、お世話だ・・・」
ルガジーンの背後からは威勢のいい掛け声と、剣戟の音が響く。
けれど、二人は無言のままに僅かな時間が過ぎていた。
「・・・・・・体が、おかしい・・・」
ふと、呟やくようにガダラルが沈黙を破った。
ルガジーンは聞き取れなかったようで、俯くガダラルを見た。
「こっちに来てから、体内の精霊たちが勝手に動き出している」
ふと、考え込む。
「ああ、先程の事か」
怒っていないのだろうか。
いきなり炎を浴びせたのに、この男はいつもと変わらない風情である。
「明日、ゼオルムに行く」
「・・・なに?」
「炎の精霊と契約をし直しに行かなくては」
「トロールの本拠地だぞ?」
「解っている。ただ、あそこは炎の精霊が多いから都合が良い」
「危険だ」
「けれどこのままではコントロールしきれない。街を焼くかもしれん」
ルガジーンは口をつぐんだ。
ガダラルは生粋の黒魔道士である。ナイトの自分とは生き方も考え方もまるで違う。
彼がそういうのなら、そうする事が一番いいのではあるが・・・・・・。
それでも、敵の本拠地に一人で向かわせるなど出来るはずも無い。
「解った。護衛を付けよう」
「一人で良い」
「私が行く、ならば良いな?」

ルガジーンとは強引な男だ。穏やかに笑う中にも、
隠れて何者にも曲げられない強い信念があると、そう思う。
でも今はその強引さは有り難い。
「祝詞を上げるだけだ」
「興味がある。見てみたい」
「・・・・・・面白くもなんとも無いぞ・・・ただ・・・」
「・・・ん?」
精霊との契約に使う祝詞は、古代語で綴られる。
一種のトランス状態に陥るため、確かに一人では危険だった。
「勝手にしやがれ」
「させて貰うさ」
ほんの少しの穏やかな風が流れた所で、ルガジーンは再び広場へと戻った。
休憩にしよう、という声がしたが、なぜかガダラルはそこから離れる事が出来ずに居た。
明日使う祝詞を書き上げなければいけないだろうに、
再びルガジーンが踵を返して自分の元に戻るのを期待していたのだ。
やれやれ、と各種族の兵士達が汗をぬぐい、思い思いに散らばっていくのを
確認しながらも、ガダラルはルガジーンの姿だけを捉えていた。
女性の兵士達に囲まれて談話している様子を、ただ呆然と見ている。
休憩だというのに彼は片手剣を持って熱心にも指導しているようだった。
女性兵士の甲高い声がやけに耳に付く。可笑しい、心がざわめくのだ。
チリ、とその指先に炎が纏わりつく。
「またか・・・」
炎はゆるやかにとかげの姿になり、ガダラルに向かってちろりと舌を出した。
火とかげ、サラマンダーは古代語で何かをガダラルに伝えていたが、ここは実界である。
体が精霊界から抜け出せない下位のサラマンダーの声は、ガダラルにも届かなかった。
忌々しいと言わんばかりにそれを握りつぶすと、火とかげは無言で弾けて消えた。
精霊は死なない。うっかりこちら側に来てしまったそれはただ精霊界に戻ったであろう。
炎が勝手にざわめく。ガダラルの中の炎は、感情という象徴であるかのように、ただ激しく揺らめいていた。

 

「・・・・・・威勢のいいことだ」
ふと、何の前触れも無くその冷たい声がガダラルの耳を塞いだ。
後ろを振り返り、真っ赤な鎧で身を固めたヒュームの青年の姿を確認する。
「宰相・・・殿」
慌てて片膝を石畳に付けようと身を屈めたガダラルに
「良い、楽にしていろ」
宰相は手で制していた。
「・・・・・・ハ・・・ッ」
宰相・・・ラズファードと顔を合わせるのはこれで二度目だっただろうか。
ルガジーンに新たな蛇将として本国に連れられ、その任命を受けた時以来・・・つい最近の事である。
あの時は思ったものだ。「まるで表情がない」と。
ふと、ラズファードの表情を盗み見る。冑の奥から覗く黒瞳を眩しそうに広場へと向けていた。
元よりガダラルの事は見てはいなかった。ただ単に自身が向かう場所にいた男に声を掛けただけだろう。
そこにいるのがガダラルであろうが、自分の側近の不滅隊員であろうが、
名も無い市民であろうが、誰でも構わずに。
ラズファードの広場を眺める表情は、相変わらず威厳を保つ程度に硬かったが、
誰かを探し出すように視線を動かすと、そこで固定された。
何を、見ているのだろうかとガダラルはその視線の先を追ったが、ラズファードはすぐに目を逸らし、
逆にこちらを見ていた。薄暗い回廊に、その眼が炯炯と光っている。
嫌な感じがした。
「お前は、東部の出だったな」
「は・・・」
まるで品定めをしているかのように、自分が何かの
価値のある「物」のように、彼はガダラルを見ていた。
「出身は?」
ラズファードはどういうつもりでこんな質問をしているのだろう。
「・・・・・・既に、ありません」
「ほう?」
「皇国に滅ぼされし国ゆえ」
「吸収したつもりだが・・・・・・まぁ、そう思うのは仕方ないことだな」
ぎり、と、ガダラルは己の下唇を噛んだ。あの時の事は生涯忘れる事など出来ないだろう。
双頭の蛇の軍旗をはためかせ、小さな山間の村に進軍してくる武装されたチョコボの騎兵隊。
軍用のチョコボはツメが恐ろしいほどに大きく発達し、畑を掻き乱していったし、
兵士達は女や金品を奪い、男たちを矢で射った。
師に抱かれて震えた幼すぎた自分と、妹弟子。
「・・・良くある話だ・・・」
宰相の声はただ静かで抑揚が殆ど無い。
支配者は結局、支配される側の痛みなど知ろうともしない。
ガダラルの手は、わなわなと振るえていた。
あの時、偶然にも師の家に行っていなかったら。
師がハイ・エンシェントの精霊魔法を使えなかったとしたら、
今こうしてガダラルは存在していなかったかもしれない。
「ルガジーン」
冷たい声がガダラルの上官の名を呟く。
・・・いや、冷たいはずの声は、やや、熱を持っているようにも聞えた。
違和感を感じる。ガダラルの背筋につ、と、冷たい汗が流れた。

・・・・・・良い、漢だ。
そう聞えた気がした。

空耳だったかもしれない。
ふとラズファードの方を見上げたが、彼の表情は相変わらずで、読めない。
得体が知れない。この国の宰相とやらは、どこか人間離れしていて、不気味だ。
「貴様は」
ラズファードは再びこちらを見ていた。どこまでも深い闇色の目。
「ならば何故、皇国に下った?」
ドクリ。と、ガダラルの心臓は鳴いた。
「内部から謀反でも起こそうと思うたか?」
ラズファードの左手が、そっと愛剣に伸び、鞘を撫でる。
「・・・」
「・・・・・・そういえば東部本戦では、異例の出世をしたようだな」
黒瞳がまた、ガダラルを舐めるように見ている。
そこだけが異様に輝いているようにも見えて、ガダラルはただ恐怖を覚えた。
「・・・・・・戦場は誰もが死ぬ可能性があります。私は、運良く生き残っただけのこと」
「ふん・・・」
カチャリ。
剣を鞘から引き出す音が薄暗い回廊に響く。
ガダラルが逃げないと思ったか、ラズファードはゆっくりと刀身を晒し、
その剣先を彼の顎に示した。鍛え上げられたその刃に、ガダラルの表情が映り込んでいた。
「その顔」
「・・・・・・なにか・・・・・・」
「陽に焼けることのない白い肌に青い目。そうか、あの村の生き残りか。懐かしい」
ガダラルの剥き出しのままの喉がゴクリと鳴る。
口が渇くほどに緊張しているのに、唾液など出ない状態で息を呑んだ。
「リシュフィー」
「はい」
今まで誰もいなかったはずの空間にそっと若い不滅隊の男が現れたことにも、
ガダラルは驚きさえしなかった。蛇に睨まれた蛙のように、身動きさえとれない。
「この者に湯浴みを」
「はい」
その返事を待ちもせずに、ラズファードは剣を鞘に収め、
踵を返すとそのまま埃の舞う広場へと消えていった。
人ごみの中、遠巻きだがルガジーンと会話をしているように見える。
「今夜はアナタかぁ」
リシュフィーと呼ばれた若者は、すっかり砕けた様子で
両手を頭の後ろで組むと残念そうに呟いた。
「でも、しょうがないよねえ。命令だもの」
「・・・・・・なんの・・・ことだ」
「夜のお相手に、見初められたってことでしょ。・・・・・・あれ?将軍様、はじめて?」

不滅隊の青年は、目を細めてにっこりと笑っている。
後ろを振り返ると、その視線の先にはルガジーンと宰相の会話の様子だけが目に入った。
自分だけ闇の世界に取り残された気分にさせられる、
あの光溢れる広場の二人は、嫌悪感を抱かせるほどに神々しかった。

「・・・・・・嫌だ・・・」
「駄々こねないで下さいよぉ」
「・・・嫌だ、もう、嫌だ」
「・・・んもぅ・・・大丈夫ですって。あの人ああ見えて酷いことするから」
「嫌だ・・・」
「力ずくで連れて行くしかないなぁ」
リシュフィーが後ろを振り返ると、闇の中に光る小さな瞳がいくつか。
息づかいさえも聞えず、ただ、闇の中に人の形を成す者が数体、立っている。
不滅隊の連中か、と確認はしたが、その後はどうやって連れ去られたか、
ガダラルは思い出すことも出来なかった。

ただ、足掻く。
あの男の名を呼ぶ。
「ルガジーン・・・ッ!」
けれどガダラルの目に映るのは、
穏やかに宰相と会話を楽しむその姿だけだった。