はじめての恋  ・くちづけ・





薄暗い洞窟の中で煮えたぎるマグマは、
部屋にあるたった一つの明り取りのように二人の影を妖しくその壁に揺らしていた。
二人のうちの一人は、トロールへの警戒の為、背中の大剣の柄を握ったまま微動だにしない。
さらにもう一人は、精霊に捧げる祝詞をただ、謳う。

その呪文はガダラルらしく早口であり、
それに合わせて手の印も素早く動かしているため、
普段祝詞を行う魔道士の姿など見たことは無いルガジーンにとって目を見張るほどだった。
祝詞はハイエンシェントと呼ばれる古い言葉であり、精霊に伝えるベく、身振り手振りも加えて行う。
それに、地面には略式した魔方陣を呪文に合わせるように足で書き込んでは消し、を繰り返している。
その動きが軽やかなステップを踏んでいるようにも見え、不謹慎かもしれないが、
一心不乱に精霊への歌を謳い踊りを捧げるガダラルの姿を、
皇宮での祭りに用意される楽団の踊り子達のように美しいと思っていた。
そこにいるものの目を釘付けにせんとばかりの洗練された彼女達とはまた違う魅惑的な踊り。
別に本物の踊り子のように薄絹を纏っているわけではない。
足首や手に鈴のついたアクセサリーを付けている訳ではない。
甘い香りの香水を付けている訳でもない。
ただ、魔道士の格好のままに踊るガダラルが美しいのだ。
すっと伸びた細い指先は、爪すらも輝き、くねる腰は男を誘うかのように。
彼に惹かれているのだと自覚してしまったルガジーンには目をそらす事などできるはずも無かった。
額に汗をかき、頭を振るたびにそれが跳ね、地面に落ちる前に蒸発をする。
そんな状況で、一体どれくらいの時間をこうしていなければならないのかと
考える事もしないままに立ち尽くしていた。物珍しさも、その理由に含まれてはいるが、
こうして彼ら精霊使いは精霊の王と会話をするのだと、ルガジーンはただ感心した。
魔法のスクロールなどには無い大いなる力を、こうして契約という形で得るのだろう。

ぐらり、とガダラルの体が揺れ、一瞬だけ祝詞が詰まった。
が、何とか持ち直したのか、再び足踏みをし、声を上げる。
ルガジーンは思わずその体を支えに行こうと身を動かしたが、その必要はなかったようだ。
再び彼は洞窟内に声を響かせた。
けれど、ルガジーンの耳の奥に先ほどのガダラルの声がこびりついて離れない。
もし、失敗したら?
悪い予感ばかりがせめぎ、心臓をキュ、と締め付ける。
杞憂であれば良いと思う。
いや、彼ほどの魔道士なら、やり遂げてくれるのだろうと、それを信じるしかないのではないか。
しかし、その祝詞はいつ終わるかも解らない。
ガダラルの紡ぎだす言葉はすでに使われていないハイエンシェント語であり、失われた言葉だ。
ルガジーンにとってはそれは異国の言葉のようにしか聞えない。
その祝詞がどういった内容であるかも解らなかったし、
したがってその言葉から終了までの時間を予想することも出来なかった。
ならば何故それが精霊に伝わるのかと言うと、
太古は精霊界も実界も無く、全ての生物が仲良く平和に暮らしていていたという。
「欲」を知った人間や獣を見限るように、精霊たちはもう一つの世界を作り、
実体を持つ者が干渉してこないよう、世界を遮断したのだという。
その事については幼い頃母に呼んでもらった本に書かれていた内容だったし、
だからこそその時疑いもせず成人した今なお、幼い頃の記憶が思い起こされたのだろう。
ナイトでありながらもルガジーンは、こうして絵本の世界のような光景にも、
ガダラル達が見えるであろう精霊の名を告げられても納得をしていた。
過去に思いを馳せ、ほんの少しだけ心に隙が出来たのか。


気付いた時、すでにぴん、と指先を天井に伸ばし、
そこでガダラルの動きは止まったままに微動だにしなくなったことに気づくのが一瞬遅れた。
「終わったのか?」
話し掛けるルガジーンのほうを見ないまま、ガダラルは咽喉を使い切った掠れた声で、
再び何かマグマの滾る上空を見つめては古代語を発していた。
彼が見えるものをルガジーンには見えはしない。
しかし、ガダラルのその様子から見るに、そこには恐らくイフリートの姿があったのだろう。
ガダラルが何を話しているのかは勿論こちらには伝わってこない、
が、その表情から緊急の事態であることは精霊のルールにうといルガジーンにも解った。
先ほど体が揺れ、祝詞が止まったことが原因ではないか。
ルガジーンはアルゴルのグリップを強く握ったまま、しかし姿の見えない炎の精霊王への
対処の解らぬままに、疲労で揺れる魔道士の背を睨んだ。
指示を、してくれれば。
その願いが伝わったのか、ガダラルは頬に
一筋の汗を浮かべ、垂らしたままでこちらを振り向く。
「・・・・・・しくじった」
そう呟き、
「やべ・・・・・・」
目を閉じてふわりと、目には見えない力に
引き込まれるかのごとく、宙に体を投げ出していた。
ルガジーンにもソレはしっかりと見てとる事が出来た。
一瞬、ガダラルの背後に巨大な炎の手が見えたのである。
それが彼の手を掴み、マグマへと放り投げようとしたその時
「ガダラ・・・ッ」
すぐさまに走りこんで、ルガジーンはその傾く体を支えた。
咄嗟に手を掴むと、かろうじてマグマへのダイブを阻止し、
それでもガダラルの体を放り込もうとしているのか、尚も引っ張られる。
ルガジーンは彼の体を抱え、アルゴルをズラリと引き抜くと、重心を倒し、
恐らくそこにある手めがけて振り下ろした。
相手は実体を持たない精霊である。
手ごたえは無かったが、ガダラルの体を引く力も無くなり、
すんなりと彼の体はルガジーンの腕へと収まっていた。
「ガダラル将軍、おい!」
腕の中のガダラルは目を硬く閉じ、あの一時で気を失ってしまったようだった。
「どうしたらいい!?どうすればいい!!?」
ルガジーンはその体を揺すったが、彼の中身が抜け出てしまったかのように、
恐ろしいほどに体は軽く感じられた。眠ったり、意識を失うと体の緊張は解ける。
手足ははだらりとぶら下るので体重が重く感じるはずだが、彼は逆に軽くなっていた。
魂にも重量があるのだという話を聴いたことがある。
ルガジーンの背に冷たい汗が糸を引くように落ちてゆく。
まさか、精霊界へ引き込まれるということは、魂が抜けると言う事か?
ならば彼は、この体を無理に放棄させられたと言う事か?
「目を開けろ・・・!」
頬を叩き、肩を揺さぶった。
けれど声は届かない。

 

腕の中に納まる小さな体が硬直し、肌の色さえ変わっていく。
それは微々たる変化だったが、普段の彼の肌の色を
よく見ていたルガジーンにとっては、おぞましい光景であった。
作り物の透明な皮膚のような、そうだ、蝋でできたような艶やかな死体独特の土気色。
皮膚の伸びは無くなり、ただ肉に貼りついている薄い膜にしか見えない。
ぞくりと、ルガジーンの背筋が凍った。
耳を彼の心臓の上に持ってくるが、かろうじてそこは緩やかに鼓動を繰り返していた。
ほんの少しの安堵と、しかし、安堵したからと何の手筈も無い自分を悔いた。
どうすれば、良い?
彼の言葉通りなら、祝詞を失敗し、イフリートの怒りを買い、
そして今彼は精霊界へ引き込まれたことになる。
こうなれば、彼は精霊界でイフリートと戦う事になるのだろうか。
ぎゅ、と手を握り、その顔を覗き込んだ。
蒼白、である。
しかし、ほんの少しではあるが変化も見てとれた。
眉がひくつき、唇が微かに動いている。
そうだ、彼は生きている。彼の精神は精霊界に引き込まれたものの、
イフリートを捻じ伏せる事ができればまた戻ってくるのではなかったのか。
頬を軽く叩く。
彼の名を呼ぶ。
それを何度も繰り返す。
「ガダラル」
頭のターバンをとってやり、汗を拭い、髪を撫でつける。

───ルガジーン、精霊はね、体をもたないの。
     とっても不確かな存在なのよ。

母親の言葉が頭に響く。

───でもね、人間とお話するのが大好きなの。
     だから、精霊を見つけたらお話しをしてあげてごらんなさい。
     きっと、答えてくれるわ。

精霊界へ引き込まれた彼は、
今まさに精霊と同等の存在になったのではないのか?

「ガダラル!」
ならば、声を掛ければ。
この声に気付いてくれれば。
「ガダラル!ガダラル!!」
トロールに見つかっても構わない。ただ、ルガジーンは声を張り上げて彼の名を呼んだ。
細い肩を揺すっては、頬を撫で、心臓を再び速く動かそうと擦り上げた。

これが。
この小さな動かぬ体がずっと触れたいと願っていた彼なのだろうか。
違うだろう?熱を持ち、笑い、怒り、そういう生きた彼に触れたいと願っていたのだろう?
「ガダラル・・・・・・!」
きつく抱きしめ、濃い茶の髪を掻き抱く。
初めてこんなに近くで見て、可憐だと気付いた
その唇がルガジーンの耳元にうわ言のように声を掛けた。
「・・・・・・?」
それは古代語であった。
精霊界でイフリートと対話しているのか。
しかし、彼の声の片隅に「ウンディネ」という名を確かに聞いた。
「ウンディネ。ウンディネ、だな?」
返事があるわけはない。しかし、ルガジーンはその言葉で
何か覚醒したかのように彼の体を抱き上げ、坂を下ってエジワへと移動していた。

ウンディネ、とは女性の形をして実界へ現れる水の精霊のことである。
それを前もって知っていたのは母親のおかげだと、ルガジーンは今は離れて住む彼女に感謝をした。
軽くなった体を抱えたまま、エジワの坂を走る。
キキルンやチゴーの姿があったが、キキルンは元々人間を襲いはしないし、
チゴーに至っては自分より強いものには無視を決め込む。
走りながら、ルガジーンはそれに気付かない自分を叱咤した。
イフリートの、つまり火の弱点は水。
あのように炎の力の強い場所ではガダラルには不利になるに決まっている。
しかし、この先をもう少し行けば、地下水の湧き出た泉があるはず。
そこに行き、水の加護を得れば魔道士であるガダラルなら
イフリートに太刀打ちできるのではと、そう思い立ったのだ。


エジワ羅洞は恐ろしく冷ややかに二人を迎え入れたはずだったが、
手の中のガダラルは先程と同じように熱く、時おり苦悶の表情を見せた。
苦しそうなその顔にも、彼が生きている証明になり、ルガジーンは微かに安堵していたのだ。
彼の頭を自身の胸に押し付けるように抱き、羅洞に生息する光苔やキノコや、
地上では見られない奇妙な形の植物に目もくれず、ただひた走る。
光の差し込まないそこで小さな灯りの変わりになったのは粘菌類の胞子の類である。
それらが子孫を増やすべくふわふわと光を撒き散らしては、ルガジーンの足場を照らし、
踏みしめる度に輝く胞子を振りまいた。
鎧の金属部分が擦れあってはがちゃがちゃと音を鳴らし、
体が揺れる度にガダラルが苦しそうな声を発した。
「ガダラル」
当然だが返事は無い。
「ガダラル」
けれど、走りながらでも彼の名を呼び続けなければいけないような気がして、
ルガジーンは舌を噛む事も恐れずに呼びかけていた。

泉への距離はさほどではなかった。
地下水で出来たその泉は氷のように冷ややかに水をたたえていた。
鎧や外套が濡れる事も構わない。ルガジーンはガダラルを抱きかかえたまま、
その体の熱を静めようと泉に入っていくと、穏やかだった水面は酷く乱れた。
バシャバシャと水を掻き分け、それでも長身のその男の太股の位置くらいの深さにしかならなかったが、
ブーツに付いた光の胞子が眩しかったのか、暗闇で目が退化したらしい魚が慌てて逃げていった。
ガダラルの体を抱えたまま腰を沈め、彼を冷やす。
「ウンディネ」
小さくルガジーンの声が羅洞内に響いた。
「言葉は解らぬ、けれど、この魔道士に力を貸してやってはくれないか」
しかし、羅洞内はしんと静まりかえり、ルガジーンの声に反応するものはいなかった。
もし、彼女達が反応しても、ルガジーンにはそれを聞く術はないのだから。
「ガダラル」
水に浸かったままの彼を見る。
眉間に皺を寄せ、閉じている瞼がひくついては唇が震えた。
精霊界と実界は時間の長れが違うと言う。
かすかに動く唇は、おそらく精霊界で呪文を唱えているのだろう。
「闘っているのだな」
手を握っては振り払われた。しかしそれは無意識だろう。
印を結ぶために固定されるのは良しとしない。魔道士だ。
彼は精霊界でもまた、己の知る呪文だけで渡っている。
「ガダラル・・・」
声を、掛けねば。
精霊と化した彼に届くように、声を。
言霊が信仰の証なれば、言葉は彼にとっての力になるはずと信じて。
「ガダラル」
刹那、彼の体がビクリと跳ね、「くッ」と、声を上げた。
その直後にまた、体が高温を帯びる。
「・・・・・・魔法を喰らったか?」
汗の噴出す頬を撫で、けれど、もう手の施しようの無いまま、彼を強く抱き上げていた。
これは術者の戦いであり、ルガジーンは完全な部外者である。
再び声を掛け、頬を軽く叩いては実界の存在を教え続ける。
「取り込まれてはいけない、そこは君のいるべき場所ではない」
ルガジーンもまた、自身は気付かなかっただろうが、
ひどく苦しそうな顔のままガダラルの名を呼んでいたのだ。
ガダラル、ガダラル、ガダラル・・・・・・!

その名を呼ぶだけで胸の奥底から
熱くこみ上がる感情を、ついに堪える事が出来なかった。
名前とはこんなにも強い力を持つのか。
荒く息を吐くその小さな唇に自分のそれを押し付けていた。
その名を呼ぶだけで、おかしくなっていたのかもしれない。
一度押し付けた唇を離して彼を見ると、ガダラルのそれが
ぱくぱくと、水を奪われた魚のように喘いでいた。
口づける事を求められているような気がして
「ガダラル・・・・・・」
名を呼んでは、また、熱く震えるそれを奪っっていた。
ルガジーン自身、どうする事も出来なかっただけだ。
こうすることで、ガダラルがイフリートに打ち勝つなどと思ったわけではなく、
ただ、触れて声を聞かせれば実界への帰り道の道標になるかと、
ただそれだけだったのに溢れる愛おしさには抗う術を持たなかった。
角度を変えては奪い、震える吐息を聞いた。

夢中だった。頬が赤く、苦しそうに喘ぐ姿に煽られたまま、何度も重ねるだけの口付けをする。
夢中で頭を撫で、細い腰をずり落ちないようにと持ち上げて太股に乗せて抱きしめると、
二人から生まれたように波紋が岸へと広がってゆく。
ぐったりとする首をこちらに向かせては、
唇を舐めて、やがて舌を差し込んでいた。
肉厚なそれを擦り上げる。
甘い痺れが背筋を駆け巡ると、理性の糸がぷつりと
音を立てて切れるように、彼の舌を貪るように奪い続けた。
「・・・・・・ふ・・・っ・・・」
溜息が、聞こえた。

慌てて口付けを辞めてガダラルを覗き込むと
「・・・?」
ゆっくりとではあるが、薄く、ようやく力ない瞳に青い炎を灯らせた。
ここはどこだ、と言わんばかりにルガジーンを見、そしてその背後に視線を走らせる。
今までとは違う風景と室温に最初は望洋としていたのだが、
ルガジーンは彼が目覚めたのに気付かない振りをして、また唇を押しあてた。
目と目が開かれ、見詰め合うままに、唇をこじ開け、舌で歯をなぞる。
止める事は出来なかった。そして、ガダラルも拒みはしなかった。
多分、それを良しとしたのだろう。ルガジーンは増長していた。
一方的な想いが受け入れられたのだと、思い込んでいた。
互いの舌が、ツル植物からしたたりり落ちた滴が水面に弾けるようにぴちゃり、と鳴った。
その音にも気付かないような風情のまま、ガダラルはルガジーンを見てはいたが、笑いもしなかった。
恥らうように目を閉じたりもしなかったし、拒絶もしなかった。
ただ、この光景が夢でもあるかのように、
脳が覚醒しないまま、ぼんやりとルガジーンの唇や舌や吐息を受け続ける。
ようやくルガジーンの顔が離れてガダラルを見下ろすと、
彼はその逞しい腕に抱かれながらあざ笑うように口角を釣り上げ
「・・・・・・なんだ、貴様もそうなのか」
とだけ呟いて、再び気を失った。
「・・・・・・・・・っ」
だらりと下がるガダラルの首を持ち上げ、彼を見つめると、
ほんの一瞬の後悔がさざ波のようにルガジーンの胸に迫る。
目を閉じたまま動かなくなったガダラルを見下ろし、
熱でうかされていたその口付けに今更ながら後悔をした。
ウンディネの仕業か、冷水を浴びせられたように、心臓がぎゅ、と悲鳴を上げていた。
「・・・・・・なんて、ことを」
声は薄暗い闇にかき消され、そして、今頃になって
ようやくその洞内に女たちの笑うような声が響いたのだった。