はじめての恋 ・痛み・





炎蛇将ガダラルが意識を失ってアルザビへ戻ったという知らせは
すぐに彼の側近であるシャヤダルへと伝えられた。
伝えた主はビヤーダ。天蛇将の側近である。

ガダラルの自室へ訪れると、主の眠る寝台の傍らには軍装を解いた
ルガジーンが椅子に座り込み、肩を落としたまま、ガダラルの顔を覗き込んでいた。
窓から夕焼けが差し込み、その空間だけが血を纏ったかのように紅かったため、幻か、
その生臭い匂いも嗅いだような気さえして、壮年は足元がぐらついていた。
「いかが、なされましたか」
言葉を発し、そこでようやく彼の存在に気がついたように、
はっと、肩を震わせてルガジーンはシャヤダルを見た。
この男が、天の名を戴くこの武人がこんな風に狼狽する姿を見るのは初めてで、
シャヤダルはガダラルの身が危険なのでは、と冷や汗をこぼしていた。
「・・・いや・・・」
ルガジーンは頭を振った。
答えになっていない。
「ハルブーンへ赴いて、そこで」
「ガダラルさまが、何か無理をされましたか」
「いいや、違う。私が不甲斐無かった。それだけだ」
何ということだろうと、シャヤダルは頭を抱え込んだ。
宮仕えの長かった彼である。軍の大将であるルガジーンが、
こんなにもうろたえる姿を他人に晒して良いものか、と腹の底で何かが煮えたぎっていた。
「医者には、お診せになられましたか?」
「あ、ああ。外傷は無い。ただ、精神力を使い果たしたらしい」
「失礼を」
シャヤダルは一歩進み出ると、ガダラルの顔を覗き込んだ。頬が赤く、気のせいか息も荒い。
「熱があるのですか?」
「体内の精霊が暴れている」
「と、いいますと?」
「ゼオルムで呼び出したイフリートを捻じ伏せたのだ」
「・・・・・・な・・・」
髭面は絶句し、ルガジーンとガダラルの顔を交互に見つめた。
「ル、ルガジーンさまが気に病むことではないと思います・・・・・・それは・・・・・・なんと無鉄砲な」
黒魔道士を主に持つと言う事がどういうことか、この従者は良く解っているらしい。
「氷を用意してまいります。・・・・・ルガジーンさま」
いきなり名を呼ばれてシャヤダルの方を見ると、
その髭面はすぅっ、と大きく息を吸い込み、誰もがびっくりするような大声で
「背筋を伸ばされませい・・・っ・・・!」
ルガジーンに喝を入れた。
は、と俯きがちだった目が大きく開く。
慌ててシャヤダルを見ると、彼は謝罪のように深く頭を下げて挨拶をすると、慌てて部屋を出ていった。
「・・・そうだな、ありがとう」
ぴん、と背筋を伸ばすと、朝と何ら変わらない天蛇将の姿が舞い戻った。
凛々しく、いかなるときも平常心を保たねばならぬ、と自分に言い聞かせる。

 

ルガジーンは深く呼吸をして立ち上がると、薄いレースのカーテンをゆっくりと引く。
その程度の物音では起きないだろうが、それでも慎重に、気遣う。
今はただ、彼の体力を信じるしかないのだが、この小さな体に不安になっては
「彼は成人した男性だ」
自身に言い聞かせるように声に出していた。
男なのだ、まして成人している、男だ。
耐える体力はあるだろう。
「男、なのだな・・・・・・」
窓際で立ち尽くしたまま呟くと、額を抑た。
その長身の影は、傾く太陽に照らされ、さらに長くなった影を床に落としていた。
ガダラルはただ、昏々と眠り続ける。

 

エジワ羅洞で意識を取り戻したガダラルは、薄く目を開けて、
しっかりとルガジーンの姿を確認した筈だった。
一言、何かを呟いてすぐにまた目を閉じたのだが、少し歩くだけでワジャーム樹林へと
抜ける道があったため、ルガジーンは彼を担いだままアルザビへと帰還を遂げたのである。
駆けつける門番にすぐさま医師の準備をさせるよう命じ、彼らが担架を担いでここに来るより
早いだろうと思い直して、聖皇や、宰相への報告より早く自ら医務室へ赴いたのだ。
ガダラルは勿論だが、ルガジーンの姿も見れたものではなかった。
ずぶ濡れのままワジャームを移動したため、枯れ葉はおろか枯草までが
びっしりとその足にこびりつき、外套には刺のついた植物の種子が刺さっていた。
鎧の隙間からは水が入り込み、体中が湿り気で気持ち悪かったし、
ブーツの中でぐちゃぐちゃと音を立てて歩き難い事この上なく、
長時間にわたる森の中の疾走で疲れ果てていた。
それでもルガジーンは勧められる咽喉を潤すための冷えた水を飲みもせずに、医者の元へと急いだ。
腕の中にはぐったりと、かろうじて頬が赤い程度が生きている証拠のようにも見える
炎蛇将ガダラルが小さく震えていた。
ずぶ濡れのガダラルを見るや否や、白髭を蓄えた医師団の長とその助手達は
慌てて装束を脱がせて、治療用のベッドへと寝かし、薄い毛布を被せた。
心音や脈を診た上で、皇国兵の全員分の診断書の入った棚から
ようやくガダラルのカルテを探し出し、白髭の医師は
深くため息をついて「絶対安静に」と、ルガジーンを睨んで見せた。
軍医とはいえ、兵士の命を預かる彼ら医師団は特別な地位にある。
彼らの意見は何色にも塗り替える事はできない。つまり、命じられれば絶対、なのである。
その医師の一人がガダラルを診て、まずその裸体から目を背け、そしてルガジーンを睨みつけたのだ。
天蛇将とはいえ、医師は高齢だったし、なにより軍内でも特別な立場にいる軍医である。
さすがにルガジーンでもこの眼力には怯んでいた。
「どこか、悪い場所が?」
白髭は他の医師や看護士を手で払うようにしてその部屋から退場させると、
酷く汚れた姿のままのルガジーンにタオルを放って
「あまり言いたくは無いのですが」
椅子に座った。
「貴方様は立場もありますし、普通に女性をお相手に選んだ方が宜しいかと思いますな」
コホン、と咳払いをした。
「・・・?」
「しかも、このように・・・これではまるで、陵辱ではありませんか」
「ま、まってくれ」
「言い逃れするおつもりか。天の名を戴くものが」
うろたえるルガジーンにピシャリと言い放つ。
「いや、すまんが、本当に解らぬのだ」
白髭は一瞬だけ目を大きくさせると慌てるルガジーンの顔を
良く覗きこんでから、衝立の隣にある応接間の椅子を勧めていた。

白髭は手に持っていたそれをパサリとテーブルへ落とすと
「カルテを見ますと、この方は朝に鎮痛薬を処方されておりますな。
 と、処方した者のメモにも炎蛇様の名が書かれておりますし。
 そして、服を脱がした上で診たのですが、
 手首に何かを縛り付けたような跡と、体中に内出血の痣と」
頭髪と同じく白くなった太い眉をしかめる。
「・・・・・・?」
同じように眉を寄せたルガジーンを一瞥すると
「診れば解るとは思いますが、恐らく肛門にも裂傷があるはずでしょう」
白髭は無常にもその真実を突き止めていた。
ざ。と、ルガジーンの体から血の気が引いていくのが解った。
「可愛そうに・・・」
医師はおもむろに立ちあがると、ポットからコーヒーを淹れ、それをルガジーンに寄越した。
受け取ったそれはビーカーで、残念ながら飲む気にはなれなかったのだが。
「お顔色が優れませんな・・・・・・こういった話は初めてで?」
ルガジーンは顔面蒼白のまま首を横に振った。
「アルザビからでた事の無い方はね、まぁ、花街もありますし、
 比較的平和ですからこういった事はなかなか解らないものですが、
 東部本戦のような戦地ですと、まぁ、コホン。・・・・・・そうそう珍しくも無い話なのですよ。
 特にこの方は一般出のようで、後ろ盾がありません。しかも若く、小柄なヒューム。
 女気の無い戦場では・・・・・・」
「・・・・・・」
頭を抱え、上げた苦しそうな声は、誰にも聞き取る事は出来なかった。
「昨夜、この方はどこに?」
ハ、と頭を上げると、そこには相変わらずこちらを睨む白髭の厳しい顔があり
「いや、彼の側近もそれは解らず・・・・・・」
口元に指を当てて考えてはみたものの、昼間の演習から
それきり午後は彼の姿を見ていないことに今更ながら気付くのだった。
「まぁ、普通に考えればその時、でしょうなあ」
たっぷりとした白髭を弄びながら、医師は自ら淹れたビーカーの中身をずず、と啜り
「いかがされますかな」
とだけ言った。
「いかが、とは」
「犯人を軍法会議にかけるか否か。これは炎蛇将さま次第ですが。証拠となる診断書も書きますがな?」
「・・・・・・彼は多分、嫌がるだろうと思う」
「まぁ、そうでしょうな」
強姦は精神的に辛く、世間体もあるため、
裁判を起こそうとする被害者が少なく、それ故泣き寝入りが多いという。
実際に起きている事件は、裁判の数よりずっと多いのも現実だった。

朝からガダラルの顔色が優れなかった事は気付いていた。ゼオルムで足元をふらつかせ、
そしてあの時言った言葉は本当だったのだ、と、ようやく気がつく。
どうして、聞いてやらなかったのだ。
なぜ、話してくれなかったのだ。
勿論、ガダラルの性格は分かっているつもりだ。
プライドが邪魔をする、彼はそういうタイプの人間だろうと思う。
「さて、この簡易ベッドに将軍様を、と言うわけにもいきませんが、入院扱いにされますかな?」
白髭はこういった怪我人に慣れているのだろうか、実に事務的にガダラルの身の上の心配をした。
精神ではなく、身体の治療が一般的な軍医の役割である。
怪我の無い者にベッドは貸せない、と、遠まわしに言っているのである。
「まぁ、魔道士が無茶をしすぎて精神力を使い果たしてぶっ倒れる、などと言う話は戦場では良くあること」
一息ついて、タバコを咥えると指先をはじいて無詠唱で炎を出す。彼も精霊魔法の心得があるらしい。
大きく息を吸って、鼻から煙を吐くと、実に美味そうに目を細めた。
「自室にてお休みになられても?」
その言葉にルガジーンは頷き、来た時と同じように彼を抱えて自室に運んだのである。
勿論、担架を用意させようとした白髭は驚きはしたのだが、止めはしなかった。

 


それが、つい先程までの事。
窓際に立っていたルガジーンは廊下から響く足音を聞くと、
ドアを開けて両手に荷物を抱えたシャヤダルを招き入れた。
「おお、ルガジーンさま。お手数をお掛けします」
急いでガダラルの頭を抱えて枕をどかすと氷入りの枕に換え、額に氷嚢を乗せて固定してやる。
「落ち着けばいいのですが」
「うむ」
「ルガジーンさまもお休みになられた方が?」
シャヤダルの申し出に心底感謝をしつつ、ふと考える振りをした上でそれは断った。
「いや、眠くはない。疲労もしていない」
シャヤダルは彼が先ほどと違って通常の凛々しさを取り戻した事に安心をし、した上で
「この方の従者は私です。どうぞ、ルガジーンさま、この場は私にお任せを」
と、進言する。
ふと、ルガジーンはガダラルとシャヤダルの主従の関係を見てきたから
「良いのか?」
と、逆に聞き返していた。
「主を守るのが従の役目ですから」
髭を少しだけ手で撫で付けながら
「私もですね、黒魔法については勉強したのですよ」
溜息混じりに言う。
「ほう?」
「相手がイフリート、ともなると命の危険も出てきますね。
 こうして無事でいる事は有り難いのですが、ガダラルさまは「泉」を使われたのでは、と思ったのです」
「魔力の泉か」
「ええ。あれを使いますと2日は体の調子が戻らないそうで」
「ふむ・・・確かに」
「ええ、それが目安かと」
───彼の中身は間違い無く戻ったのだから、とルガジーンは口の中で呟き
「解った。2日が目安だな」
シャヤダルを見下ろすと、軽く頭を下げた。
「よろしく頼む」
さすがにこれにはシャヤダルも驚き
「な、なんと言うことを。大将ともあろう貴方様が私めなどに頭を下げて良い筈がありません」
酷く恐縮をした。
けれどルガジーンは元々礼儀正しい男である。
柔らかく微笑むと、ガダラルの顔を覗き、眠るその耳に何かを
 ───恐らく激励だろうとシャヤダルは踏んだのだが───呟いてから部屋を辞した。

 

自室に戻ると、まず、ルガジーンはその大きなベッドへ突っ伏していた。
別に眠りたかったわけでもない。
シャヤダルに疲れてはいないと言ったのは嘘だったが、
体は疲労した上で、しかし瞼は閉じるとこを拒否し、
目を見開いたままシーツを掴む自分の手をじっと見ていた。
浅黒いその手。
全てを守ろうと、そう誓ったはずのその手はしかし、
最も身近にいる部下の存在すら危うい場所へ立たせていた。
医師の言った言葉が耳から離れない。
白髭は確かに陵辱と言い、ガダラルが強姦の被害にあったことをルガジーンに訴えてきた。
心が騒ぐ。
誰が?と。
見つけ出したら・・・・・・。いや、ガダラルに言わせれば良い。
その名を知ったら自分はどうなるのだろう?

 

ギシリ、とベッドが軋み、ルガジーンは体を起こしていた。
腰掛けると両肘を膝に預け、指を組んで頭を支える。
しかし、これが強姦でなければ。そういった嗜好だったら、と思うと頭が痛い。
そこで、ルガジーンの出る幕は無くなってしまうし、いや、と思い直す。
「私は信用されていないのだろうか・・・・・・」
懸念はふいに口をついて出ていた。
差し伸ばした手すら振り払われるのに、と自嘲して眉をひそめる。
山猫のような彼は、多分誰にも懐かない。
それはもう、解っていたはずなのに、解っていたからこそ、そう思い直すと空しさが付き纏う。
彼に惹かれているから、頼りにされたい。ただ、それだけなのだ。
ルガジーンは瞼を閉じると、頭を振った。
その瞼の裏にはゼオルムでのガダラルの踊る姿が勝手に浮かんでは消えていくし、
唇にはエジワで無理矢理交わした口付けの感触が残っている。
腕の中でぐったりとする彼の体の重みも、硬く閉じた瞼が
ゆっくりと開けられたときの高揚感とあの瞳の輝きを忘れる事は出来ないだろう。
冷たくも熱を帯びた体、手を離すとだらりと力なく水に沈んで消え去りそうな体。
なのに軽く、そう、死体のように軽くなった体を抱き寄せてはかき抱いた、
その感触をもう一度欲しいとすら思う。
これは呪縛だ、と思う。
誰かを好きになる、惹かれるということはその人に捕らわれるという呪縛なのだ。
この短期間で、短時間でこれほどにも愛してしまったのか。
胸が焦がれて痛みすら覚え、ルガジーンは前かがみになると
その胸を押さえると、底は確かに軋んでいる気がする。
苦しい。
「・・・・・・」
何気なく窓の方へ目をやると、そこは薄暗く、もうすぐで夜の帳が落ちるのだと、教えてくれた。
聖皇と宰相への報告がまだであった、と思い出す。
行かねば。

  

ルガジーンが再びガダラルの部屋を訪れたのは次の日の朝方だった。
出勤前に彼の様子を見ようと、軍装の出で立ちでその扉をくぐる。
誰よりも早く出勤するシャヤダルが部屋にいるとは思えなかったし、
ガダラルはまだ深く眠りについている気がして、無作法と思いつつノックはしなかった。
「あ、ルガジーン様」
ガダラルのベッドの脇に、若いヒューム女性が椅子に腰掛け、
眠り続ける彼の手を握り締めたままこちらを向いていた。
窓から差し込む逆光でシルエットしか解らなかったが、
そのほっそりとした体つきにローブを着ていても女性であると言う事は気付いてはいた。
そして、慌てて目元を指で擦った事にも、解ってはいたが、気付かない振りをした。
その女性は初回の演習で目にした、ガダラルの部下の中でもひときわ美しいあの娘であった。
彼女は慌てる様子もなく優雅に立ち上がると腰を落とし、
「おはようございます。昨日は我が将がご迷惑をお掛けしました」
と、しっかりとルガジーンを見つめた。
ガダラルと同じく濡れたように輝く青い瞳が印象深い娘だった。
「看病を?」
「はい。シャヤダルさまから経緯を聞きまして、ずっと水の詠唱をしていました」
「ご苦労。彼の様子は?」
「お陰さまで落ち着いているようです。熱も下がりました」
「それは重畳」
娘はルガジーンの意思を汲み取ったのか、そっと場所をどくと、にっこりと微笑んで見せた。
それを合図としたのか、ガダラルのベッドの脇に寄ると、顔を覗き込む。
既に氷枕と氷嚢は外され、ガダラルは
いつもの顔色を取り戻し、深く眠りについているようだった。
「うん、良い寝顔だな。黒魔道士流の看病の仕方があるらしい」
ルガジーンも彼女を見下ろすと微笑んでみせるが、
再び見入るようにガダラルに目線を移す。
「こんなに嬉しい事はない・・・・・・」
その呟きは彼女に聞えたかどうか。
ルガジーンは優しい眼差しで暫しガダラルの顔を見つめていたが、
娘が茶を淹れてくれ、それを勧められるまま椅子に腰掛けてカップを手にした。
温かなそれが手のひらを伝って染み渡る。
「朝用の濃い目の紅茶です」
「ありがとう」
「ガダラル様は寝起きがあまり良くないので、朝は濃い目のお茶を飲むんです」
「・・・・・・ほう?」
何故そのようなことを、と思いつつ、彼女が東部時代からの部下であると言う事を思い出す。
「東部でも紅茶を?」
「え・・・あ・・・ええ・・・」
こういった嗜好品を戦場で飲めるというのは珍しい話である。
体を暖めるための粗悪なアルコールなら支給されるだろうが、紅茶など贅沢品ではないのだろうか。
彼女の言葉になにか裏があるような気もしないでもなかったが、
ルガジーンは言いよどんだその返事をあえて深く追求する事はしなかった。
普段はコーヒー派ではあるが、たまに飲む紅茶もまた良いものだと、一口すする。
ほんの少し娘の顔に陰りが見え
「彼は凄い魔道士だったのだろうね」
話題を反らすと安心したように
「それは勿論です」
娘は誇らしげにガダラルを見つめた。東部でのことを思い出しているのだろうか、
娘の表情はやや物憂げに、少し寂しそうで微かにその肩は震えていた。
「・・・・・・?どうした?」
ルガジーンが声を掛けると、彼女はポロポロと涙をこぼしていた。
「い、いいえ・・・っ・・・・・・すみません。ただ少し、昔を思い出しただけで・・・・・・」
戦場の過酷さがその涙で解ったような気がして、ルガジーンの胸が痛んだ。
昨日の白髭の言葉と、初めてこの娘を見た時の下品な感想が同調していた。
───女性である彼女は、他の兵士の慰み者にされていたのではないのか、と。
「ガダラル様が眼を覚まさなかったら、私、どうしたらいいか・・・・・・っ・・・・」
娘は顔を両手で覆うと、堰を切ったように嗚咽を漏らしては泣いた。
どうしたのか、と彼女を眼で追うと、再びガダラルに縋りつくように
ベッドの脇にしゃがみ込み、出し放しにされていた白い手を握り締めた。
「ずっと、ずっとガダラル様に・・・っ・・・」
「・・・・・・?」
娘は再びガダラルの手を握ると、それをゆすっては撫で、頬をすり寄せていた。
ほんの少し、ルガジーンの胸がちり、と痛む。
嫉妬をしている自分に少し嫌気がさす。
表情に出ていないだろうか、自分の頬を撫でいつもと
変わりがないので安堵している、そんな自身に再び嫌気感を覚えていた。
この娘なら同じ所属だし、可愛らしく、生涯ガダラルの隣にいてもおかしくはないだろう。
美しい青年と娘。なんと絵になる光景だろうか。
だってそうだろう?
自分は種族の違う、けれど性は同じ男だ。
同じ種族のこの娘の方がどれだけガダラルにふさわしいだろう。
けれど、そう思うたびにガダラルに縋り付いて泣く娘のほっそりとした項や、腕や、
長く柔らかな髪の毛が嗚咽の度に震えるのが痛ましく、ルガジーンの胸もまた酷く痛むのだ。
可愛そうに、と思う。
部下でありながらガダラルを慕ってきたのだろう。
このまま眼を覚まさなかったとしら、彼女はルガジーンを怨むのだろうか。
魔道士を守りきれなかったナイトだと、罵るのだろうか。
その姿が、この細く儚い後姿を見るだけで容易に想像できた。
そして、その姿はどんなにか美しいのかも予想できて、
ルガジーンは彼らをまるで夢の中の住人のように、別の生き物のようでさえ思えてくるのだ。
明らかにルガジーンだけが隔離された世界に投げ込まれたように。
「にいさま・・・・・・、にいさま、兄さま、目を開けて、兄さま」
溢れる涙を拭おうともせず、娘はただガダラルに縋りついた。
「・・・・・・兄?」
ルガジーンの呟きに体を震わすと
「すみません。つい、昔の癖で」
「・・・・・・?」
「ガダラル様は兄弟子で・・・・・・。同じ師に育てられましたから・・・・・・」
「そ・・・うなのか・・・・・・」
なんと深く、太い繋がりだろう。
子供の頃から共に学び、遊んできたのか。
ガダラルが見聞きするもの全て、同じようにこの娘も感じて生きてきたのか。
時間とは取り戻せないもののうちの1つだ。
それを彼らは共有していた。
なんて羨ましい事だろう。
妬ましい事だろう。
落ち着いて、涙を拭く娘がこちらをじっと見つめ、
そしてその視線に気が付くとルガジーンは自分の心の狭さを悔いた。
己の人間の小ささに軽い絶望を憶える。
何が、大将か。何が天の名を戴く者か。
なんて、醜い心を。
娘の瞳は真っ直ぐにルガジーンを見つめ、彼の心の薄暗い所を射抜くように光っていた。
それは涙と、朝日のせいだと解っているのに、見返すことは出来なかった。
「シャヤダル様に、兄さまの身辺の調査をさせていらしましたよね・・・・・・?」
娘がきゅ、と、唇を噛んだ。
「私の所にもシャヤダル様がいらっしゃったんです」
ああ、と思い直す。
そうだ、ゼオルムへ行く前に書類を受けていながら、中身を見てはいなかったのだ。
デスクの上に封をしたまま置きっ放しの書類が目に浮かんだ。
「もう、ご存知ですよね?兄さまが男の方に身をひさいでいたこと」
娘の言葉でルガジーンの周りの空間がぐにゃりと曲がるような感覚に襲われた。
無機質なはずの机や魔道書がびっしりと押し込まれた本棚も、柔らかい曲線を描く目の前の娘すら。
嫌な汗が背筋をツ、と流れ落ちるのが解る。口の中が乾いてべとつく。
底なしの沼に入り込んでしまった哀れな生き物のように、
もがけばもがくほど呼吸すら困難な状況に陥っていた。
甲冑の上からそっと胸を撫ぜて鼓動を抑えようと試みたが、しかしそれも上手くはいかなかった。
「看病していて、手首の跡に気付きました」
娘の淡々とした声に吐き気さえ覚える。この娘もあの医師と同じ事を言うのか。
ルガジーンはガダラルへの想いが誤りだと追い詰められていくような不快な息苦しさを感じた。
「すまん、調べさせたのは事実だ。しかし、中身はまだ見ていない」
娘は目を見開き、口を抑えた。恐らく、ガダラルを無視した
自分の先走った行動に反省をしているのだろう。
「すみません・・・・・・」
娘は落ち着こうと席について紅茶を少し口に含むと、眉をしかめてからゆっくりと嚥下する。
小さく咽喉がコクリと動き、飲み込んだところでひとつ、ため息をついた。
「いや・・・・・・」
ルガジーンもそれに習ってカップを口に付けたが、
冷めたそれは渋味が目立ち、飲めたものではなかった。
「わたし、女だから・・・」
娘がカップを受け皿に置くカチャリとした音が静寂のなか、やけに響いて聞こえた。
「そういう命令が時々あったのです。・・・その・・・お相手をしろという・・・。
 わたし、嫌だった。だってまだ恋もしたことがなかったのに、顔も知らない人に、って。
 自分の部隊から女を差し出せと、そういわれて。
 でも兄さまは、司令部のテントへわたし達の代わりに・・・・・・・」
娘の声は再び掠れ、涙をこぼさまいと瞼を硬く閉じて顔を天井へ向けた。
手で顔を覆うと、深呼吸を繰り返す。
「司令部?」
「東と西の都の方々は『視察』ついでに戦地で羽目を外すのですね」
娘は声を震わせたまま皮肉げに口元を緩めると、ルガジーンを見つめた。
「偉い人たちって、下衆」
ずきりと、胸が鳴った。まるで魔女のようだ。
この娘の瞳はあまりにもガダラルに似すぎていて、心を見透かされているようでほんの少し恐ろしい。
エジワで無理矢理口づけをしたことも、この娘には解っているような気がしていた。
彼女の言葉は矢のように突き刺さる。
「都では偉そうに胸を張って歩いているくせに、戦場で処女を抱くのが
 息抜きになると本気で思っている。それを武勲のように思っている」
ルガジーンの手が固く握られた。ギリリ、と手甲の革の部分が音を立てた。
娘の目が容赦無くルガジーンを射抜く。青い瞳はガダラルの代弁をするように鈍く輝いていた。
───俺は何人もの男をしっている。・・・・・・汚いだろう?───
自分は違う、彼らのように腐った心根はしていないと、思っても、自分を信じる事が出来なかった。
ガダラルの意識があるのに関わらず、彼の意志を無視して唇を奪っていたのだ。
そしてガダラルは言った。「なんだ、お前もか」と。
都からきた連中と同じく、俺を勝手に奪うのだな、と。


汚いのは私の方だと、ルガジーンは自身の行動を悔やんだ。
娘の言うようにガダラルが目覚めなければ、
後悔するのはきっとルガジーン自身だ。
「ルガジーンさま」
娘は頭を下げていた。
「ガダラル様、都に呼ばれたことをとても感謝していました」
「・・・・・・そうか・・・・・・」
「安心して眠れる夜を。温かな食事と、皆の笑顔を」
ルガジーンの瞳に涙が溢れていた。
「ルガジーン様、お願いです・・・兄さまを助けて・・・下さい・・・こんな酷い事・・・もう・・・!」
そのささやかな願いを、断る事など出来ただろうか?
男性としての尊厳を奪われる事が無いようにと、
その願いを断る事など出来ただろうか?
「ああ、彼は私の大切な部下だ」

 

 

忘れよう。
彼を好きだと、そう思う心は捨ててしまおう。