はじめての恋 ・その嘘を・





薄く開けた瞼の隙間から、遠慮なく光が差し込んでくる。
太陽の光を見るということ、それは生きていることと、朝を無事迎えることが出来たという事を強く感じる。
仰向けのまま両手を掲げると、その甲は食事も摂らずに眠っていた報いか、
元々少なかった肉が削げ落ち、骨が目立っていた。
指を動かせばその部分は血管が蛇のようにうねり、こりこりとした感触も伝わってきた。
熱があったため余計に脂肪が落ちるのが早かったのだろうか。
両手でゆっくりと顔を撫でると頬はこけ、さらに髭も伸びて髪はごわごわと硬く、
汗や頭皮の油で汚れているのが解る。
体が上手く動かないのにも関わらず、ガダラルはまず風呂に入りたいと、ただ、思った。

部屋を見渡すが、テーブルの上に置いた筈の無い本が一冊だけ置かれていた。
栞がされていたので、まだ読みかけなのだろう。
あいつかな・・・。遠い故郷で共に過ごした娘の姿を思い描いては口元だけで笑った。
読みかけの本は仕舞う事をせず、その度に師匠に叱られていたっけ。
大人になってもまだそんな癖が残っていることに好感すら覚えた。
眠っている間も、水の詠唱がずっと聞えていた。優しく、滑らかに謳う詠唱はあの娘独特のもの。
ウンディネと同じ女性だからだろうか、娘はガダラルよりも水と同調するのが上手かった。
体内のイフリートが大人しくなったのは、彼女の詠唱のおかげだろう。
「・・・・・・声」
久方ぶりに発するその声は掠れてはいたが、ゴホン、と咳払いをすると再び
「声が」
呟く。
───あの男の声に。

 

 

ルガジーンはその日、早朝から演習場にて、兵士達の稽古をつけていた。
自身も剣を振るい、その姿は気迫に溢れ、見学に来ていた上層部の人間達も
感心したように目を細め、天の武を褒め称えた。
そこには勿論宰相ラズファードとその側近である不滅隊員数名の姿もあった。
ザワ、とどよめきが走ると、兵士達が慌てて退き、ルガジーンへ向かう1本の道を作ると、
人海を掻き分けるように宰相ラズファードが早足で演習場の中央まで進み入る。
彼の黒瞳には演習場の中心のルガジーンの姿だけが映っていた。
その勢いにまるで背後から追い風が吹くように、ルガジーンが気付いた時は
すでにラズファードは目の前まで迫り、風が「轟」、と鳴った。
その口元に笑みを浮かべ、軽く腰を沈めると、自身の左腰に刺した曲刀をズラリと一気に抜く。
誰もが息を飲んだが、その狙い済ましたような一撃を、
ルガジーンは後退して間合いを取りつつ、模造の大剣の腹の部分で受けていた。
ビィン、と痺れににた振動がラズファードの手に伝わった。
再び微笑んで見せると、曲刀は再び元の鞘に収められる。
「顔つきが変わったな」
「・・・・・・?」
───どういう、意味なのか。
ルガジーンは無言で頭を下げると、ラズファードは踵を返し、
数名の不滅隊員を引き連れると、再び回廊へと姿を消していった。

 

暫しその後姿を目で追うが、入れ違うようにシャヤダルがその姿を現していた。
彼の足元で砂埃が舞うのが嫌に目立ち、演習場の空気がほんの少しだけ止まったようにも思える。
炎蛇将の側近である彼が、ルガジーンへ報告したい事があるとすれば・・・・・・。
兵士たちも既にガダラルの身を案じ、シャヤダルを見つめた。
「ガダラル様がお目を」
しかし、ルガジーンは手を挙げて軽く振ると
「それは良かったな」
素っ気なく言う。
「ルガジーンさま」
さすがにビヤーダも驚いていた。部下思いの彼が、たったその一言か、と。
「なんだ?」
「いえ、お見舞いには行かれないのでしょうか?」
「昨日、行った」
「けれど、お目覚めになられたのですよ」
「そのようだな」
あえてビヤーダのことは見ず、逃げ腰の兵士に激を飛ばす。
「行けというなら、行くが」
汗を拭う。
太陽は頭上でじりじりと攻めるように輝いていた。

 

剣の稽古を終えて、汗を洗い流すと軽装になって執務へと
移行したルガジーンを横目で見ながら、シャヤダルは何か言いたそうにその上官を見た。
あれほどにガダラルを心配した姿が嘘のように、今のルガジーンは酷く冷めた態度なのだ。
「シャヤダル」
「は・・・っ」
「炎のはいつから出れる?」
「体力が落ちています故・・・・・・」
「仕事が溜まっている」
「は・・・・・・・・・」
「聖皇様へと宰相殿への謁見もまだだったな」
「替わりに私めが」
「世話の焼ける主人を持ったな」
口元だけの笑みを見せ付けられると、シャヤダルに助け舟を
出すかのようにビヤーダがコーヒーを淹れて、デスクに置く。
「ありがとう」
その口調も微笑みもいつもと変わらないようにも見えるのに、やはり、どこかが違って見える。
「ルガジーンさま」
「ん?」
コーヒーを口につけた所でビヤーダに声を掛けられた。
「ガダラルさまへのお見舞いは行かれたのですか?」
嚥下し
「いや、まだだ」
思わず二人の従者は互いを見合い、眉をひそめた。
「果物を買って参りました。食欲が落ちていると聞きましたので」
「私に持っていけ、と?」
ルガジーンは頬杖をついて笑うと
「君の気の利き様には困ったものだ」
きつく縛った髪を撫で付ける素振りをし、
ビヤーダの机にある茶色の袋を持つと、部屋を出て行った。

 

カツカツと、靴音が回廊に響く。
ガダラルが眼を覚ました。なんと嬉しいことだろうか。
ゼオルムでの行動から、彼との間に見えない壁のようなものは感じていた。
彼が張ったその防衛線のような壁は結局、その名を呼び続けることで簡単に取り払われていた。
熱く火照った唇を奪い、舌を奪い・・・・・・イフリートの炎ではない熱が、
ルガジーン自身の心に溜まる熱い滾りが理性すら奪い、どうすることもできなかった。
けれど今は、エジワでの事を後悔している。

 

宮殿から宮殿へ移行する長い渡り廊下の途中にある庭園の小さな池に、
水をすくって遊んでいる小さな人影を見つけ、ルガジーンは慌てて片膝をついた。
人影の脇にはいつもラズファードの傍らにいる不滅隊の青年と、赤いオートマトンの姿も確認できた。
「コノヨウナ所デ」
マトンの言葉に、小さな人影が立ち上がると、ゆっくりと振り向く。
「ルガジーン」
アフマウは男の姿を見つけると笑顔で駆け寄ってきた。白い装束の可憐な少女だ。
ルガジーンは眩しそうに彼女の姿を見ると頭を深く下げた。
「ご機嫌麗しく」
「・・・・・・こんにちは」
不滅隊の青年はその顔をヴェールで覆っているため、表情は解らない。
けれど、その声から明らかに警戒をしているのは解った。
「謁見の間にいらっしゃるのかと」
これでは報告に行ったシャヤダルが可哀相だな、などと思いつつ、
後ろに纏めた髪がはらりと揺れたのに気がついた。
「伸びましたね」
彼女とは殆ど会うことは出来ない。
謁見の間で御簾の向うからの声と気配を感じる事しか通常は許されてはいない。
アフマウはルガジーンの長い黒髪を弄びながら
「ゼオルムでは大変でしたね」
「勿体無いお言葉」
あくまで声を崩さない男に、少女は困ったような顔を浮かべ、気を取り直すかのように明るい口調で
「ルガジーン、池にね、アメンボがいるのよ」
と、誘った。
「それはそれは」
「すーって、滑るの!」
傅いたままのルガジーンの手をとると、アフマウは無邪気にその池へと手を引く、
自然とルガジーンの体が傾き、抱えていた茶袋の中からリンゴやオレンジがぽとぽとと落ちた。
「あ、ごめんなさい」
「炎蛇将ノ所ニ行クノカ?」
横槍を入れて来るオートマトンのアヴゼンはその細い腕で落ちた果実を拾って手渡す。
「・・・・・・」
不滅隊の青年が眉間に皺を寄せたのが解ったが、その意味をルガジーンは図り損ねてはいた。
とりあえず「ええ」とだけ返事をする。
手を引かれるまま池のほとりに立つと、アフマウははしゃいでアメンボを指差して見せた。
「大きいですね」
「うん」
すい、と小さな波紋を生み出してはその水面を滑るその虫が
どれだけ特別な存在なのか、若き聖皇は夢中でその滑走を見ていた。
「可愛いね!」
「そうですね」
「マウも滑ってみたいなぁ」
「沈んでしまいますよ」
「炎蛇将が池を凍らせてくれれば滑れるわ!」
「アルザビの気候では、すぐに溶けてしまいますよ」
ガダラルが聞いたらどんな顔をするのだろう。
彼はポーカーフェイスを気取ってはいるが、不満や怒りなどはすぐ表情に出る。
かといって、常に不機嫌そうにしているからほんの少し眉間の皺が増えるだけだ。
多分彼の本当に不満な時の顔とは、ルガジーンしか知り得ないのではないかと思い、
やはり彼を見ていたのだと自覚する。
自覚したからといって何なのだ。
彼への想いは断つべきだと、あの時ガダラルの部下の娘に諭されたのではなかったか。
住む世界が違う。
彼は汚れている。

 

「ルガジーン」
「は」
「やな事があったの?」
「・・・・・・」
アフマウはいつの間にかアメンボを眺めるのを辞め、水面のルガジーンを見つめていた。
「怖い顔・・・・・・」
は、とルガジーンも池に映る自分を見ていた。
眉間の皺、鋭い眼光。アフマウの心配そうな表情、何も知らず水中で泳ぐめだか。
どこからか持ってきて植えたのか、勝手に自生したのか、風に揺られて水面を作る背の高い葦。
「どうかしてますね」
頬を撫で、いつもの笑顔を作ろうとしたが、それがどんな表情だったのか解らない。
そして、表情とは意識して作るものだったのだろうか?
「そろそろお時間です」
青年の声にアフマウの足元のアヴゼンが同調する。
「行クゾ」
「あ、うん。今日は属国のお客様が来るんだっけ・・・・・・」
返事をしつつ、ルガジーンを見上げると両手をキュ、と胸で握り締め
「お役目、大儀です。でも、無理はしないでね」
ルガジーンの会釈を見ないまま青年の下へと走り、
その裾を掴んだまま薄暗い回廊へと消えて行った。
「無理など、していませんよ」
誰もいないその中庭でポツリと呟いたその言葉は誰も聞くことはなかった。
再びス水面を見る。
「怖い顔、か」
何故だろうな。
袋の中のリンゴやオレンジはつやつやと輝いて見えたし、
芳香は強く、それだけでどんなにかその果実の味が素晴らしいのかそう像に容易い。
これらを選んできたビヤーダは相当な目利きに違いない。
それをひとつ、手に持ち、これを食べるガダラルの姿を想像した。
旨い、と言うだろうか。それとも相変わらず怒った表情だろうか。その前に食欲はあるのだろうか。
「ガダラル・・・」
不器用に声に出したその言葉は、止める事が出来ない程にいとおしい。

 

 

我慢して食べ続けた最後の一口を匙ですくって口に押し込め、多少の咀嚼の後に飲み込む。
これにて食事は済んだ。と、言っても髭面自らが炊いたと言う白粥で、
さすがに成人男性の食事量としてはいささか物足りなさを感じたが、
ここの所ろくに食事を摂っておらず、働く事を忘れていた胃には
それだけでも充分な量に感じられた。気が利くようで実はあまり気が利かない従者は、
ただの白粥と野菜のスープしか盆に載せておらず、味の無い粥は飲み込むのに困難し、
薄い味付けのスープで何とか嚥下する、と言う有様だった。
今度来たら料理の手ほどきでもしてやるべきかと、苛つきながらの食事であった。
それでも、腹が満たされ、目が冴えると今度はどうしても身支度を気にしてしまう。
着ているものは夜着であった。
ゼオルムへ行った時の装束とは違う。
誰かが着換えさせたのは間違いないだろうが、さて、誰なのかと首を傾げた。
自分を連れ帰ったのはルガジーンだろうが、こういった身の回りの事は、
側近であるシャヤダルか、もしくは宮廷遣いの女官か。
いずれにせよ、みっともない姿を晒してしまったな、と思う。それでも過ぎたことは仕方が無い。
シャワールームへ移行すると裸になり、下着すら着けていない事に多少は驚くが、
エジワで体を水浸しにされたのだったと思い出して胸を撫で下ろした。
鏡でその裸体を見ると、以前から肉付きの悪さには呆れてはいたが、
この3日のせいか、腕を上げればあばら骨が浮き出るほどに痩せていた。
男ならもう少し筋肉が欲しいが、と思い、なぜか自分を抱きしめた
あの男の腕の硬さが感触として残っている事に気が付く。
その両手の指をゆっくりと動かし、両二の腕を抱く。
力強かった。
この細い体をかき抱くあの手は力強かった。
それと同時に目覚めてからの事がフラッシュバックのように脳裏に掠めるのだ。
目が合った。
目が合った上で、あの男の口づけを確かに受け止めていた。
薄い唇に反して、熱く肉厚な舌。
鏡の中のガダラルの目は潤み、その表情が下品にも感じられて
彼は舌打ちをするとシャワールームへ飛び込んでいた。
寝たきりだったため足元がおぼつかないせいか、体を叩く熱い湯と弾ける水しぶきと、
清涼な石鹸の香りがまるで夢の国のようで、現実味がない。
手首にはさすがに縛った跡は残ってはいなかったが、
恐らく着換えさせたものには見てとれただろう。
石鹸を泡立てては何度も体中擦った。体の汚れのせいか、
泡は瞬く間に消え、何度も石鹸を泡立てなければならなかった。
畜生と、口の中で呟くが、上手く発音できない。舌すらもつれるのだ。
丁寧に刷毛で泡立てたブラシでたっぷりと顔に石鹸の泡を乗せ、鏡を前に剃刀を手にし、
髪や体を洗うついでのようにそれを顔に宛がうと、下から上へと引く。
乱暴にしたつもりは無かったが、角度が不味かったのか、無意識に引いていたのか。
「・・・・・・いて・・・・・・」
泡に覆われた頬から剃刀の通った部分は肌がくっきりと現れ、赤い血がじんわりと滲んでいた。
気を取り直して再び剃刀を頬に滑らすが、一箇所を切っただけですっかり髭は剃れた。
鏡を覗き込みながら角度を変えて確認し、滑らかになった頬を撫でつけると、
仕上げのように頭から湯をかぶった。

 

 

部屋に戻っても何もすることは無く、体にだるさも残っている。
再びベッドへ潜り込んだ所でドアをノックする音に気がつくが、
どうせいつもの髭面だろうと高を括って返事はしなかった。
それどころか面倒くささもあって、上掛けにすっぽりと体を包めると寝た振りを決め込んでいた。
彼は極度の人嫌いである。
気が向かないときはこうして無視でやり過ごす事も何度かあった。
その度にシャヤダルはドアの外で溜息を吐き、無言で帰っていくのだ。
今回もそうだと思っていた。
なのにまた時間を置いてからノックされ、
それでも返事をしなかったのにノックの主は図々しくもそのドアを開けていた。
明らかに、シャヤダルではない、堂々と歩み寄る靴音がカツ、カツ、と聞えてくる。
知っている。この足音。
「・・・・・・寝ているのかな・・・・・・?」
低い声。
テーブルの上に何かを置いた音を立ててから
ルガジーンは椅子に腰掛け、寝たふりを決め込んでいる
ガダラルのすぐ側で何も言わないまま、彼の目覚めを待っていた。
ガダラルの息が詰まる。
まさか起きるまで待つつもりじゃ無いだろうな?
面倒くさいと、思うと同時に、ずっと側にいて欲しいと思う自分がいることに気がつくと、
その胸の鼓動はどきどきと、早鐘のように狭い暗闇に響いた。
短い時間にもかかわらず、ルガジーンは椅子から腰を上げると、
どうやらテーブルの上の本に気がついたらしい。
それを持ってきて再び椅子に腰掛けると、紙の立てる微かな音だけがその部屋を支配する。
恐らくはシャヤダルの報告があってここに来たのだろう。
ガダラルが寝ていると確認したのに、ルガジーンは帰ろうとしなかった。
カサリ、とページが捲られたかと思うとパタン、と本を閉じる音がし、再びそれはテーブルに置かれた。
本に飽きたルガジーンが部屋を出てしまう音だと、そう思うより先に体は動いていた。
上掛けを乱暴に剥ぐと、驚いたように男はこちらを見ていた。
「・・・・・・起きたのか・・・・・・あ、気分は・・・・・・?」
ルガジーンもそれだけ言うのが精一杯だったのか。
「悪くは無い」
「そうか」
ほんの少しの表情の変化もガダラルは見逃さなかった。
上官であるその男の表情は間違いなく安堵していた。
「ただ、だるい」
「熱が出ていたからな。君の同郷の娘が看病していた。後で礼を言うといい」
「解っている。声が聞こえていたから」
声とは、水の詠唱の事だろうと、ルガジーンは考え、
そして、やはり、彼等の絆は太いのだと思う。
「そうか」
「そうだ」
ほんの少しの沈黙。
「アンタの声も聞えた」
「・・・・・・え?」
「エジワで」
ぷい、とそっぽを向いて言ったガダラルのその言葉に
ルガジーンは無理に唇を奪った事を思い出していた。
「すまな・・・」
かった、と続けようとし
「礼は言わん!」
言葉は遮られていた。
「・・・・・・?」
「確かにアンタが俺の名を呼びつづけたから俺は実界への道標に出来たが、礼は言わぬ」
「そうか」
「そうだ!護衛をしろと言ったのに、なんだ、この体たらくは」
「すまぬな」
「さっさと部屋を出ろ」
「そうか」
「そうだ」
それでもルガジーンは立とうとはしなかった。
ガダラルの後姿が自分を引き止めているようにも思えたから。
ただ、もう何も語ることは無いのだろうか。互いに沈黙だけが残った。
ルガジーンが足をゆっくりと組む。
「ガダラル将軍」
その沈黙の後に声を出したのはルガジーンであった。
「なぁ、私の顔はおかしくないか?」
横目でチラリとその精悍な男の顔を見る。
「いつもと変わらん。眉毛と目と鼻と口と。・・・にやけやがって」
「・・・・・・そうか。変わらんか」
薄く口元が微笑む。
「君は痩せたな。頬がこけて・・・・・・ああ・・・剃刀負けをしたな?」
ガダラルの頬にある赤い線に気がついて、目を細めた。
「うるせぇ」
「先程怖い顔だと言われてね。無理するな、とも。表情とは心の変化が出てしまうものなのだなぁ」
感慨深く言うその口調をガダラルは年寄りみたいだと思いはしたが、口には出さなかった。
ルガジーンは両手指を組むと、親指同士を弄び、長い足を組み直す。
ふわりと、薄いカーテンが風を孕み、
それを合図にするように、ルガジーンはその唇をひらく。
「・・・・・・君を、好きになった」
ガダラルを見つめるその視線は真剣そのものだった。
「・・・・・・・・・・・・?」
「今回の一件で、それが良く解った。諦めようとも思った。
 その途端に表情が怖いと言われてね。
 もう一度君を好きだと思い直したら、今度はいつもと変わらないと言われた」
ルガジーンはハハ、と笑うと
「驚いただろう」
・・・・・・と、続けた。
 

何を言われているのかは解らなかった。
好き、とは?
俺に対しての感情か?
ああ、こういう甘い言葉を吐いておいて、
結局はコイツもアイツ等と「同じ」か。
軽い失望に眩暈さえする。

 

ガダラルは酷く冷めた表情でルガジーンを見ると、上着を脱ぎ捨てていた。
「こんな痩せた体でよかったら、どうぞ。天蛇将様」
「・・・・・・?」
「やりたいって事だろ?」
吐き捨てるように言った言葉は自分自身を傷つけたように、彼の顔は哀しみの色で歪んでいた。
そうか、とルガジーンは思い直す。
彼は上官から何度も要求されつづけていたのだ。
軍人である彼には上からの命令は絶対。命令1つでもすればこの白い体は自由に出来たのか。
───汚い。
腹の奥底で真っ黒い煙が噴き出すような気持ちの悪さを覚えていた。
その煙がどんよりと、ルガジーンの心臓を締め付ける。
ドクドクとそれが波打ち、息が詰まる。
───最低の男ども。
部下を庇って男達に体を捧げていた、その過去が未だに現実として彼には刷り込まれている。
娘たちを庇い・・・・・・彼は誰よりも優しかっただけなのに。
それにようやく気がつくと、その手は彼の細すぎる体をかき抱いていた。
「・・・可哀相に・・・・・・」
こんなにも誰かを愛しいと、そう思ったことなど無かった。
心が痛むほどの恋などしたことは無い。
嫉妬している。過去の男達に。
ガダラルは抱きしめられながらも冷めた表情を崩しはしなかったが、
ルガジーンの広い背にその手を伸ばし、けれど抱き返す事はせずにただ男の体温を感じていた。
「何で泣くんだ」
答えは無かった。ただ、その腕に力が込められただけ。
息苦しい。けれど、もっと抱きしめて欲しい。
「上に言われれば従うしかない」
ルガジーンは自然と首を横に振っていた。
「・・・・・・君はもう、自由だ」
ルガジーンの大きな手がガダラルの頭を支えるようにすると、顔は男の胸に留められるかたちとなった。
流れる血液を押し出す心臓の温かな鼓動が微かに聞えていた。
この男は俺を奪ったりはしないのだな。
ガダラルは安堵し、そっと目を閉じた。

──ああ、けれど、俺はこの男のものにはなれない。






未完